烏骨鶏を飼う |
ネットショップで売ろうかと・・・・ |
![]() 羽毛の色は白と黒の2種類があると言われていますが、少し青みがかったのもいるみたいだから、純種ではないのかも知れません。 ニワトリは脚の指が前に3本、後ろに1本あるけれど、烏骨鶏は後ろ脚の指が2本あり、合計5本存在します。 これは鳥類としては珍しいんだって。中国では霊鳥として扱われ不老不死の食材として扱われた歴史があります。 飼い始めてネットで烏骨鶏の情報を集めていると、漢方鶏といつてもいいぐらい薬効があるみたい。 烏骨鶏の血を加工したものが高価で売られています。 卵も2百円から4百円、5百円もするのがあります。 スーパーで一個20円ぐらいなのに、烏骨鶏の卵はオークションなどでは高くても売れています。 アマゾンなどで烏骨鶏と検索すると、烏骨鶏卵だけでなく、烏骨鶏卵を使っていろいろと加工されたものから、酢卵などいっぱい出てます。 これはひょっとしたらビジネスになるかもなぁと、自前のネットショップをはじめました。 「ネットショップ はと店」 http://hato.s165.coreserver.jp/hatomise/hshop.html 漢方鶏といわれている烏骨鶏だから、更に飼育方法も独自のものを実践しているので、そのことも順次書いていきます。 |
漢方鶏「烏骨鶏」を飼うとは |
淡路新聞創始者「安倍喜平」 |
淡路新聞設立者で「淡路の福沢諭吉」と呼ばれた安倍喜平 安倍喜平は天保十二年(一八四一)湊浦の商人土井屋(浜西)栄蔵の長男として生まれた。幼名を岸之助、瑞穂と称し、別に禾葉と号した。 十五歳の頃に林滄浪に漢学を、菊川延年に国学を学んだと伝えられている。読書好学の岸之助は安政三年(一八五六)十六歳で洲本の安倍治郎作の養子となった。土井屋の長男でありながら、家督を妹きち(栄蔵養女)に譲り、安倍家を継ぐことになった事情はよくわからないが、学問をする上では好都合であった。洲本では漢学を中田南洋に、霞学を松野真維に学んだ。 元治元年(一八六四)に大阪の福田理軒から洋算や測量術を学んだ。しかし、彼は自ら学習し発明する独学の人で、ロビンソンの数学の原書を辞書をひきながら独習したという逸話は、彼の才能と努力を物語っている。こうして彼は国学、漢学、数学、物理、天文、地理、歴史までも勉強し、明治維新当時、淡路第一の博学という評判をとった。慶応二年(一八六六)二十六歳で家塾を開き「積小野」と称した。従来の古い漢学塾とちがい、西洋の数学、物理まで教える積小野姐新時代に適合し、評判が古同く島外からも入門者があった。積小野は大正三年まで続いたというが、明治三十年県立洲本中学校創立まで淡路における中学教育の役割を果たした。 松帆志知川生まれ(明治八年)の大住吾八(東京高等工業学校教授)も積小野に学んだ逸材であった。明治四十三年積小軒同窓会主催で喜平の古稀の賀が行なわれ、記念詩歌句集「富草集」が出版されたが、寄編者「三〇〇〇名を越えている。明治七年喜平は名東県から郵便線路の測量を委託され、また、地租改正のため各地で測量したが、「積小儀」という測量車を発明して用いた。明治十四年には『算法樽桶丈量表」を著したが、それは醸造家に便利なものであった。 明治初年洲本最初に洋服着た人という話のある喜平は、明治九年に淡路で初めて「演説会」を開いた。 それは社会教育や学術上の問題で月に数回開き、数年も継続したという。 |
淡路新聞創始者「安倍喜平」 |
淡路新聞設立者で「淡路の福沢諭吉」と呼ばれた安倍喜平 安倍喜平は天保十二年(一八四一)湊浦の商人土井屋(浜西)栄蔵の長男として生まれた。幼名を岸之助、瑞穂と称し、別に禾葉と号した。 十五歳の頃に林滄浪に漢学を、菊川延年に国学を学んだと伝えられている。読書好学の岸之助は安政三年(一八五六)十六歳で洲本の安倍治郎作の養子となった。土井屋の長男でありながら、家督を妹きち(栄蔵養女)に譲り、安倍家を継ぐことになった事情はよくわからないが、学問をする上では好都合であった。洲本では漢学を中田南洋に、霞学を松野真維に学んだ。 元治元年(一八六四)に大阪の福田理軒から洋算や測量術を学んだ。しかし、彼は自ら学習し発明する独学の人で、ロビンソンの数学の原書を辞書をひきながら独習したという逸話は、彼の才能と努力を物語っている。こうして彼は国学、漢学、数学、物理、天文、地理、歴史までも勉強し、明治維新当時、淡路第一の博学という評判をとった。慶応二年(一八六六)二十六歳で家塾を開き「積小野」と称した。従来の古い漢学塾とちがい、西洋の数学、物理まで教える積小野姐新時代に適合し、評判が古同く島外からも入門者があった。積小野は大正三年まで続いたというが、明治三十年県立洲本中学校創立まで淡路における中学教育の役割を果たした。 松帆志知川生まれ(明治八年)の大住吾八(東京高等工業学校教授)も積小野に学んだ逸材であった。明治四十三年積小軒同窓会主催で喜平の古稀の賀が行なわれ、記念詩歌句集「富草集」が出版されたが、寄編者「三〇〇〇名を越えている。明治七年喜平は名東県から郵便線路の測量を委託され、また、地租改正のため各地で測量したが、「積小儀」という測量車を発明して用いた。明治十四年には『算法樽桶丈量表」を著したが、それは醸造家に便利なものであった。 明治初年洲本最初に洋服着た人という話のある喜平は、明治九年に淡路で初めて「演説会」を開いた。 それは社会教育や学術上の問題で月に数回開き、数年も継続したという。 |
淡路新聞創始者「安倍喜平」 |
淡路新聞設立者で「淡路の福沢諭吉」と呼ばれた安倍喜平 安倍喜平は天保十二年(一八四一)湊浦の商人土井屋(浜西)栄蔵の長男として生まれた。幼名を岸之助、瑞穂と称し、別に禾葉と号した。 十五歳の頃に林滄浪に漢学を、菊川延年に国学を学んだと伝えられている。読書好学の岸之助は安政三年(一八五六)十六歳で洲本の安倍治郎作の養子となった。土井屋の長男でありながら、家督を妹きち(栄蔵養女)に譲り、安倍家を継ぐことになった事情はよくわからないが、学問をする上では好都合であった。洲本では漢学を中田南洋に、霞学を松野真維に学んだ。 元治元年(一八六四)に大阪の福田理軒から洋算や測量術を学んだ。しかし、彼は自ら学習し発明する独学の人で、ロビンソンの数学の原書を辞書をひきながら独習したという逸話は、彼の才能と努力を物語っている。こうして彼は国学、漢学、数学、物理、天文、地理、歴史までも勉強し、明治維新当時、淡路第一の博学という評判をとった。慶応二年(一八六六)二十六歳で家塾を開き「積小野」と称した。従来の古い漢学塾とちがい、西洋の数学、物理まで教える積小野姐新時代に適合し、評判が古同く島外からも入門者があった。積小野は大正三年まで続いたというが、明治三十年県立洲本中学校創立まで淡路における中学教育の役割を果たした。 松帆志知川生まれ(明治八年)の大住吾八(東京高等工業学校教授)も積小野に学んだ逸材であった。明治四十三年積小軒同窓会主催で喜平の古稀の賀が行なわれ、記念詩歌句集「富草集」が出版されたが、寄編者「三〇〇〇名を越えている。明治七年喜平は名東県から郵便線路の測量を委託され、また、地租改正のため各地で測量したが、「積小儀」という測量車を発明して用いた。明治十四年には『算法樽桶丈量表」を著したが、それは醸造家に便利なものであった。 明治初年洲本最初に洋服着た人という話のある喜平は、明治九年に淡路で初めて「演説会」を開いた。 それは社会教育や学術上の問題で月に数回開き、数年も継続したという。 |