学問所「益習館」 |
上田先生と40人悪がきたち |
稲田騒動 |
先ずは歴史のお勉強から・・・・・ 庚午事変(稲田騒動)洲本市ホームページより http://www.city.sumoto.hyogo.jp/hp/shisei/simaitosi/kougo.html (↓ネットで寄せ集めして書く) 江戸時代の初めの元和元年(1615年)に大阪の陣の功労で淡路島は当時阿波一国を治めていた蜂須賀氏の領土となる。 太閤記では蜂須賀氏は野盗の頭領であり、矢作川の橋で秀吉と出会った。 秀吉は蜂須賀小六を野武士集団のまとめ役として、野武士集団を統一して戦力とした。 小六は通称。尾張国海東郡蜂須賀郷の土豪・正利の嫡男として蜂須賀城に生まれる。 斎藤道三に仕え、次いで織田家に従う。 秀吉の配下に加わり、秀吉の出世・天下統一を支え、四国平定の後、長年の労をねぎらわれ阿波一国を与えられるが辞退、その子・家政が代わって受ける。 徳島藩、藩主は蜂須賀家です。この徳島藩の領地には淡路島があります。 この淡路島を管理するために城代家老が置かれ、代々務めていたのが稲田家です。 この稲田家の先祖は、秀吉の時代には蜂須賀小六の兄弟分で、小六が秀吉から領地をもらった時は、独立した大名としてではく、蜂須賀家の家老であった。 時が経つとそうした事実(兄弟分)が分からなくなり片一方に不満が出てきます。 ヤクザみたいですねえ(^o^) 稲田家は、もともと美馬郡の猪尻村に屋敷、会所をかまえ、家臣もこの地方の出身者が多く、猪尻侍と呼ばれていました。阿波国18万石の藩祖、蜂須賀家政は、大坂夏の陣の活躍により淡路国7万石が加増され、25万石の領国が確定しました。 大阪の陣の後、徳島藩の筆頭家老、稲田稙元は、淡路の由良から洲本に移り15代目、稲田邦稙は洲本城主(蜂須賀徳島藩主の城代家老)となり、淡路の7000石余のみ支配していました。 幕末、1853年(嘉永6年)、米国提督ペリーが浦賀に黒船来航、稲田家は淡路の沿岸警備の任を命じられ、急増したその家臣の多くは猪尻侍でした。 幕末の政局の中で、徳島藩の蜂須賀家は、公武合体(幕府補佐、佐幕派)にこだわり、倒幕に踏みきれなかったが、稲田家は、戊辰戦争の東征軍(倒幕派)に加わるなど、本藩とは反対の独自行動をとり、その活躍は官軍でも高く評価されました。 この行動は、新政府に対し藩の面目が立つことになりました。 明治政府による版籍奉還により、徳島藩主須賀茂韶は、知藩事となり、徳島の蜂須賀家の家臣は、全員、新政府の下に10等級の士族に分けられ、家禄も国から支給されることになりました。 一方、淡路の稲田家の家臣については、新政府は、知藩事の判断で稲田家の家臣の処遇を決めるよう指示、稲田家に家臣の士族、卒族別の名簿の提出を命じました。 蜂須賀藩主から見れば、稲田家の家臣は、蜂須賀の家臣である稲田家老の家来ということになり、これが翌年の徳島藩騒擾事件、稲田騒動の原因となりました。 明治維新後、徳島藩の禄制改革により徳島蜂須賀家の家臣は士族とされたが、陪臣(蜂須賀家の家臣の家臣)である稲田家家臣が卒族とされたことに納得できず、自分たちの士族編入を徳島藩に訴えかけた。それが叶わないとみるや、今度は洲本を中心に淡路を徳島藩から独立させ、稲田氏を知藩事とする稲田藩(淡路洲本藩)を立藩することを目指す(そうすれば自分たちは士族になる)ようになり、明治政府にも独立を働きかけていくようになる。稲田家側は幕末時の活躍により、要求はすぐ認められると目論んでいた。 稲田家側のこうした一連の行動に怒った徳島側の一部過激派武士らが、洲本城下の稲田家とその家臣らの屋敷を襲撃した。 その前日には徳島でも稲田屋敷を焼き討ちし、脇町周辺にある稲田家の配地に進軍した。これに対し、稲田家側は一切無抵抗でいた。 これによる稲田家側の被害は、自決2人、即死15人、重傷6人、軽傷14人、他に投獄監禁された者は300人余り、焼き払われた屋敷が25棟であった。 政府は一部の過激派だけの単独暴動なのか、徳島藩庁が裏で過激派を煽動していたりはしなかったかを調査した。 政府にとって、この問題は中央集権化を推進していく上で日本中に反政府の武装蜂起が起こりかねないため、慎重な対応を余儀なくされた。 結局、政府からの処分は、徳島側の主謀者10人が斬首。これは日本法制史上、最後の切腹刑となった。八丈島への終身流刑は27人、81人が禁固、謹慎など多数に至るに及んだ。洲本を含む津名郡は兵庫県に編入された。 稲田家側に対しては、この事件を口実に北海道静内と色丹島の配地を与えるという名目で、兵庫県管轄の士族として移住開拓を命じ、荒野の広がる北の大地へと旅立っていった。 この静内移住開拓については小説『お登勢』や、映画『北の零年』でも描かれている。 一連の騒動をこの年が庚午の年であったことから庚午事変(稲田騒動) |
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尊王運動と益習館 |
旧益習館庭園の公開が始まった。 |
城下町洲本の遺構、「旧益習館庭園」復元 |
淡路島の歴史は町おこしになる |
明治維新は捏造だったとか、吉田松陰は・・・・などと歴史を見る視点を変えて、物書きが何を書こうと言論の自由だ。 論を立てて、それを最後に仕上げるというのが作家という職業だからそれは許されるのかもしれません。 しかし何でも売れれば良いというのにも度が過ぎるという考え方もある。 何とかの武将は実は女だったとかバラエティのようなものもあるけれど、徳川家康の影武者は映画になったりして真剣に評論する人も賛否両論があるが、実際はどうだったかなど興味深い。 TBSの記者から歴史小説の作家になった井沢元彦という人は、逆説の日本史など歴史を巡って面白い見方をするので気に入っている作家である。 尊王攘夷 天皇を尊び外夷(外国または外国人に対する蔑称 )をしりぞけることを掲げ,幕府政治を批判の対象とした、江戸末期の政治運動で、そこには下級武士や少壮公卿らが中心にいた。 [尊王も攘夷も、幕藩体制に本来そなわった考え方であるが,幕末に外国船の来航が多くなり、鎖国の維持が危うくなったとき、幕藩体制の秩序を再強化するための政治理論として,尊王攘夷論が登場した。] 稲田騒動 明治維新直後の明治3年に起きた動乱「庚午事変」はその後の淡路の運命を変えていきました。 それは倒幕で功績を残した稲田家臣らが徳島藩に独立を願い出たことが反感を買い、藩士に襲われてその結末が、北海度へ移住や淡路が徳島県[藩]から兵庫県に・・・・。 日本法制史上最後の切腹刑などもありましたが、ほんとうに徳島県と兵庫県ではどちらが良かったのだろうかと考えるのである。 益習館は稲田家臣らの子弟教育を目的に設けられた私塾で、尊王運動に影響を与えた儒学者の頼山陽のほか、西郷隆盛や木戸孝允、山県有朋ら明治維新の立役者も訪れたとされる。 天誅組の重鎮であった古東領左衛門もその一人で、鴨里の次女が領左衛門の妻である。 岡田鴨里は掃守(南あわじ市)出身で、江戸後期〜明治時代の儒者。 岡田鴨里 文化3年8月10日(新暦 1806年9月21日) 津名郡王子村(淡路市王子)生れ、のち掃守村(南あわじ市掃守)の豪商岡田家の養嗣子となった。 明治13(1880)年9月5日歿 文政11年(1828) 22歳の時、京都三本木にあった頼山陽の門をたたいた。山陽は『日本外史』を完成、次の著書『日本政記』の著述にかかっていた。山陽が天保3年(1833)に病没したため、鴨里は僅か4年程教えを乞うたに過ぎないが、高弟の一人となっており、天保5年(1834)『日本外史補偏』『日本外史補偏付録』を山陽に代わって刊行した。編著に『蜂須賀家記』などがある。 在京中、中森節斉・松本奎堂・藤本鉄石などの勤王の志士と知友になった。文久元年(1861)55歳の時、中小姓格の士分にとりたてられ、阿波徳島藩に招かれた。洲本学問所御用をつとめたが、明治維新となり官を退いた。 |