学問所「益習館」
学問所「益習館」
保険の代理店をしている同級生が研修で北海道に行ったそうです。
せっかく北海道まで来たのだから、洲本市と姉妹提携都市の静内町を訪れてみたら、高校で3年間担任だった恩師と『益習館』が関係あると大感激をしたということで、益習館というものについて調べてみる事にする。

今年は洲本実業機械科を卒業して50周年となる。
毎年9月の連休に同窓会をするのが恒例になってしまっているので、資料を集めて50周年に相応しい同窓会をしてみようと考えております。
上田先生と40人悪がきたち
(毎日新聞 2013年09月27日 あわじ版)
益習館:跡地を寄付 所有者の高田さん、洲本市へ庭園や建物7棟
市「親しんでもらえる施設に」 /兵庫

 江戸時代に洲本城代を務めた稲田家の家臣らの学問所「益習館」跡(洲本市山手3)の庭園などが、所有者から洲本市に寄付された。庭園は江戸時代初期に築かれたもので、市教委は「専門家の意見を聴きながら、復元整備をしたい」としている。
 寄付したのは、跡地などを所有する南あわじ市在住の高田一幸さん(95)。
 益習館は、稲田家が江戸時代中期の延享年間に開設した稲田学問所がルーツ。後に規模が拡大され、江戸時代後期の1854(安政元)年に稲田家の別荘があった現在の地に移された。その際に益習館と改名し、家臣だけでなく庄屋や素封家の子息も学んだという。
 明治維新で藩制が廃止されるまで続いたが、1870(明治3)年に起きた「庚午(こうご)事変」で焼き討ちされ、建物や蔵書、教具などは焼失してしまった。その後は所有者が転々と変わったという。
 別荘時代に築かれた庭園は、曲田山のふもとにあり、広大な敷地に長い池泉(ちせん)を囲むように自然石や巨岩が組まれ、武家庭園らしい豪壮さを誇るという。
 高田さんは「洲本市の史跡として市民に親しんでもらいたい」と庭園を含む約5213平方メートルの土地を、後に建てられた7棟の建物とともに寄付した。
 市教委は「庭園、建物ともかなり傷んでいるが、保存活用できるものは残していきたい。市民に親しんでもらえる文化施設、交流施設としたい」と話している。

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この毎日新聞の記事にある高田一幸さん(95)は、私たちの恩師上田邦尚先生のお兄さんではないだろうか。
上田先生は「くつわや」という質屋の婿養子でした。
旧姓は高田でした。

上田先生は平成24年9月13日に亡くなられました。
高校時代3年間私の担任でた。
16歳・17歳・18歳と多感な3年間に、男ばかりのヤンチャグレをひとりの脱落者も無く卒業までご指導下さいました。
授業では応用力学・数学・機械材料を教えてもらったようですが、すっかり勉強のことなど忘れてしまっています。
卒業までには何度も始末書を書かされた豪傑もいましたが、無事に本年古希を迎えるようになったのも上田先生のお陰です。

上田先生が亡くなった四十九日の法要に、悪がきが集まって焼香をしてきました。
そのとき遍照院住職が、上田先生と私たちの長きに亘る師弟関係を寺報に載せて下さいました。

稲田騒動
先ずは歴史のお勉強から・・・・・
庚午事変(稲田騒動)洲本市ホームページより
http://www.city.sumoto.hyogo.jp/hp/shisei/simaitosi/kougo.html

(↓ネットで寄せ集めして書く)

江戸時代の初めの元和元年(1615年)に大阪の陣の功労で淡路島は当時阿波一国を治めていた蜂須賀氏の領土となる。
太閤記では蜂須賀氏は野盗の頭領であり、矢作川の橋で秀吉と出会った。
秀吉は蜂須賀小六を野武士集団のまとめ役として、野武士集団を統一して戦力とした。
小六は通称。尾張国海東郡蜂須賀郷の土豪・正利の嫡男として蜂須賀城に生まれる。
斎藤道三に仕え、次いで織田家に従う。
秀吉の配下に加わり、秀吉の出世・天下統一を支え、四国平定の後、長年の労をねぎらわれ阿波一国を与えられるが辞退、その子・家政が代わって受ける。

徳島藩、藩主は蜂須賀家です。この徳島藩の領地には淡路島があります。
この淡路島を管理するために城代家老が置かれ、代々務めていたのが稲田家です。
この稲田家の先祖は、秀吉の時代には蜂須賀小六の兄弟分で、小六が秀吉から領地をもらった時は、独立した大名としてではく、蜂須賀家の家老であった。
時が経つとそうした事実(兄弟分)が分からなくなり片一方に不満が出てきます。

ヤクザみたいですねえ(^o^)

稲田家は、もともと美馬郡の猪尻村に屋敷、会所をかまえ、家臣もこの地方の出身者が多く、猪尻侍と呼ばれていました。阿波国18万石の藩祖、蜂須賀家政は、大坂夏の陣の活躍により淡路国7万石が加増され、25万石の領国が確定しました。
大阪の陣の後、徳島藩の筆頭家老、稲田稙元は、淡路の由良から洲本に移り15代目、稲田邦稙は洲本城主(蜂須賀徳島藩主の城代家老)となり、淡路の7000石余のみ支配していました。
幕末、1853年(嘉永6年)、米国提督ペリーが浦賀に黒船来航、稲田家は淡路の沿岸警備の任を命じられ、急増したその家臣の多くは猪尻侍でした。
幕末の政局の中で、徳島藩の蜂須賀家は、公武合体(幕府補佐、佐幕派)にこだわり、倒幕に踏みきれなかったが、稲田家は、戊辰戦争の東征軍(倒幕派)に加わるなど、本藩とは反対の独自行動をとり、その活躍は官軍でも高く評価されました。
この行動は、新政府に対し藩の面目が立つことになりました。 
明治政府による版籍奉還により、徳島藩主須賀茂韶は、知藩事となり、徳島の蜂須賀家の家臣は、全員、新政府の下に10等級の士族に分けられ、家禄も国から支給されることになりました。
一方、淡路の稲田家の家臣については、新政府は、知藩事の判断で稲田家の家臣の処遇を決めるよう指示、稲田家に家臣の士族、卒族別の名簿の提出を命じました。
蜂須賀藩主から見れば、稲田家の家臣は、蜂須賀の家臣である稲田家老の家来ということになり、これが翌年の徳島藩騒擾事件、稲田騒動の原因となりました。

明治維新後、徳島藩の禄制改革により徳島蜂須賀家の家臣は士族とされたが、陪臣(蜂須賀家の家臣の家臣)である稲田家家臣が卒族とされたことに納得できず、自分たちの士族編入を徳島藩に訴えかけた。それが叶わないとみるや、今度は洲本を中心に淡路を徳島藩から独立させ、稲田氏を知藩事とする稲田藩(淡路洲本藩)を立藩することを目指す(そうすれば自分たちは士族になる)ようになり、明治政府にも独立を働きかけていくようになる。稲田家側は幕末時の活躍により、要求はすぐ認められると目論んでいた。
稲田家側のこうした一連の行動に怒った徳島側の一部過激派武士らが、洲本城下の稲田家とその家臣らの屋敷を襲撃した。
その前日には徳島でも稲田屋敷を焼き討ちし、脇町周辺にある稲田家の配地に進軍した。これに対し、稲田家側は一切無抵抗でいた。
これによる稲田家側の被害は、自決2人、即死15人、重傷6人、軽傷14人、他に投獄監禁された者は300人余り、焼き払われた屋敷が25棟であった。
政府は一部の過激派だけの単独暴動なのか、徳島藩庁が裏で過激派を煽動していたりはしなかったかを調査した。
政府にとって、この問題は中央集権化を推進していく上で日本中に反政府の武装蜂起が起こりかねないため、慎重な対応を余儀なくされた。
結局、政府からの処分は、徳島側の主謀者10人が斬首。これは日本法制史上、最後の切腹刑となった。八丈島への終身流刑は27人、81人が禁固、謹慎など多数に至るに及んだ。洲本を含む津名郡は兵庫県に編入された。
稲田家側に対しては、この事件を口実に北海道静内と色丹島の配地を与えるという名目で、兵庫県管轄の士族として移住開拓を命じ、荒野の広がる北の大地へと旅立っていった。
この静内移住開拓については小説『お登勢』や、映画『北の零年』でも描かれている。

一連の騒動をこの年が庚午の年であったことから庚午事変(稲田騒動)

淡路の学問所「益習館」
洲本は昔から淡路の中心だったのだろうか?
南淡路の記録の中で鶴島城があった(源平合戦の頃源氏についていた)
細川氏、三好家の攻防など記録はある、歴史は系列系統を詳しく調べて書かなければならないので私のような素人には難しい。
政治勢力が変り、淡路国守護の養宜館が廃止となり流れが変わっていったのだと見ます。
日本の歴史を大きく変えたのは応仁の乱でしょう。
応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約10年間にわたる。
永正年間(1500年ごろ)紀州熊野水軍の安宅氏が洲本城を築城し始める。
1581年(天正9年)羽柴秀吉の淡路追討により安宅氏滅亡。
そして阿波の蜂須賀藩が治めることになった。
蜂須賀小六と日吉丸(のちの豊臣秀吉)は太閤記などに書かれている。
日吉丸が放浪して矢作橋のたもとで寝ていると、夜盗の一団が通りかかり、その首領に気に入られて子分になる。
小六は川舟や馬を使って物を運ぶ(商品輸送業)の用心棒をしたりする(川賊)の頭領だったそうだ。
そんなことから淡路に大きく関係していくことになる。

淡路の中心に益習館という江戸時代から幕末にかけて稲田藩の学問所がありました。
益習館は、稲田家が江戸時代中期の延享年間に開設した稲田学問所がルーツ。
後に規模が拡大され、江戸時代後期の1854(安政元)年に稲田家の別荘があった現在の地に移された。その際に益習館と改名し、家臣だけでなく庄屋や素封家の子息も学んだという。
別荘時代に築かれた庭園は、曲田山のふもとにあり、広大な敷地に長い池泉(ちせん)を囲むように自然石や巨岩が組まれ、武家庭園らしい豪壮さを誇る。
明治維新で藩制が廃止されるまで続いたが、1870(明治3)年に起きた「庚午(こうご)事変」で焼き討ちされ、建物や蔵書、教具などは焼失してしまった。その後は所有者が転々と変わったという。

尊王運動と益習館
幕末には稲田氏の尊王運動の中核に天皇を尊ぶ勤皇派が出入りすることも多く、桂小五郎(木戸考允)・西郷吉之助(隆盛)・山縣狂助(有朋)・画家斎藤畸庵などもいたという。

淡路島にとっての益習館
益習館は江戸時代の中・高等教育の場であり
淡路島の教育水準のアップに貢献し、多くの人材を育成した。
また、その益習館があった跡は重要な歴史遺産であり文化遺産である。

〜洲本市においての学問所の歴史〜
徳島藩下にあった洲本には蜂須賀氏の「洲本学問所」である文武学校
場所は現在の洲本警察署のところにあった。
8代当主・稲田植久(たねひさ)が家臣の教育のために独自の学問所を創設。
13代当主・芸植(すけたね)の代に稲田氏の下屋敷(西荘、西屋敷)へ学問所を移し
豊かな庄屋層などの子弟にも開放するなどして規模を拡大。
その名称を“益習館”に改める。

〜益習館の学風〜
朱子学(幕府・藩の正学)のほか、国学・実学・時務論も。
自由に古典を解釈 実際に役立つ学問 実証主義
時局を論ずる 現実の中に真理を見る
上方や諸国から著名な学者や文人が訪れて講義することもあった。
篠崎小竹(儒者)、頼山陽(儒者・歴史家・詩人・勤王思想家)など

国の行く末を憂い、志に殉じ、そして明治維新の魁となった天誅組の変
その重鎮に古東領左衛門という勤皇の志士がいた。
文久3年前半期は尊皇攘夷運動が最高潮に達し、長州藩や各地から集結した浪士などから成る尊攘派は、朝廷にも強い影響力を持つに至っていた。
この頃の尊攘派の主張には、朝廷が直接各藩に攘夷を命じることのほか、畿内を朝廷の直轄領とするなどの意見がみられたが、天誅組の蜂起は、幕府に対する尊攘派の初めての武力蜂起という点で画期的なものであった。
天誅組の挙兵自体は短期間で失敗に終わったものの、幕府領支配の拠点である陣屋や、小大名とはいえその居城が公然と襲撃されたことは、幕府や幕藩領主らに大きな衝撃を与え、幕府の威光の失墜を更に進行させる結果となった。
大和義挙、大和の乱などとも呼ばれる。
旧益習館庭園の公開が始まった。
江戸時代に徳島藩筆頭家老を務めた稲田家の私塾学問所「益習館」跡にある市所有の「旧益習館庭園」が整備され、市の文化財に指定された。
「淡路花博2015 花みどりフェア」で一般開放される。

益習館は私の恩師上田先生の生家が所有していたところで、昨年上田先生のお兄さんが所有していたが洲本市に寄付されたと新聞紙上で知った。
上田先生の奥様からもオープンしたときにはぜひ見てくださいといわれておりました。

益習館の庭園は、寛永8(1631)年に城下町が洲本に移ってから稲田家が曲田山麓に別荘を建てた際に造られた。私塾学問所は萩の「松下村塾」に匹敵するほどの幕末に日本の社会を大きく変える人物を排出した。
稲田騒動(庚午事変)
稲田家家臣が襲われた明治3(1870)年の「庚午事変」で建物が消失し、庭園だけが残った。
こんな大きな石をどこから運んできたのだろうかと思う自然石を巧みに生かした壮観な石組みと渓谷風の情景を形成した回遊路で構成されている。

恩師上田先生は洲実の剣道部の顧問で6段か7段の上位者で、教諭退職後は書画にも素晴らしい才能を発揮され、展示会の案内をいただきました。
益習館が先生の生家の所有であったことを最近知って、宮本武蔵のような先生に教えを受けながら、なんでもっと真面目に勉強をしなかったのかと悔やんでおります。
先生は一昨年亡くなられました。
何故か学生時代に手を焼いた悪がきばかりが、何かと集まっては先生を呼び出して飲みました。
そんな仲間が先日また一人先生のところへ旅立ちました。
そいつに線香をあげに来るというヤツと、彼岸の中日に四人で飲むことになりました。
三年間席替えもなく、ずっと同じクラスの40人の3割がアッチへ行ってしまいやがった。
3割が多いのか少ないのか?
辛いねえ、ひとりずつ行くのは。

いま日本は一極集中で、大都会にばかり人が集まっていく。
経済は基本的には人間の数によって左右される。だから名政治家といわれた英国のサッチャーさんは人頭税などというものを言い出したりするぐらい、人口があらゆるものに影響を与える。
お金を掛けて無駄な施設を作る南北の淡路島の自治体から見て、歴史を観光にひと役としている洲本市に一票をあげたいものだ。
風光明媚はいちいち説明するまでもなく、淡路島には歴史も有る。
歴史とロマンこそが淡路島の魅力なのだ。、



城下町洲本の遺構、「旧益習館庭園」復元
 歴史から町おこし

益習館は幕末の志士も愛したとされ、作庭材料としては日本最大級の岩も使われていることなどから関心も高かった。
一昨年に所有者から寄付を受けた洲本市が約650万円をかけて庭園を復元。
「旧益習館庭園」として市文化財(名勝)に指定された。
自然石は大きいもので高さ約4メートル、幅約5・5メートルと作庭材料として巨岩を配した庭園は日本最大級。
ブルトーザーやユンボなどのない時代に、こういう庭園を造ったというのは如何に稲田家の経済力があったかを示している。
私は山の自然愛好家の山のキノコさんに連れられて、諭鶴羽山系の周辺を探索することが多くなり、先日もシャクナゲ観察会に参加して、谷あいを歩き回っていると巨岩があちらこちらにあり、クレーンでもあれば・・・などと思ったり(^^;
しかし山歩きでは「取ってもいいのは写真だけ、残してもいいのは思い出だけ」というのが掟なんです。
益習館の庭園の巨岩はここ辺の石なんだろうと歩きながら考えていました。

益習館の住所は洲本市山手三丁目17番です。
場所はカーナビかGoogleEarthで見て下さい。 
近くには洲本市中央公民館、曲田山公園があります。
淡路島の歴史は町おこしになる
明治維新は捏造だったとか、吉田松陰は・・・・などと歴史を見る視点を変えて、物書きが何を書こうと言論の自由だ。
論を立てて、それを最後に仕上げるというのが作家という職業だからそれは許されるのかもしれません。
しかし何でも売れれば良いというのにも度が過ぎるという考え方もある。
何とかの武将は実は女だったとかバラエティのようなものもあるけれど、徳川家康の影武者は映画になったりして真剣に評論する人も賛否両論があるが、実際はどうだったかなど興味深い。
TBSの記者から歴史小説の作家になった井沢元彦という人は、逆説の日本史など歴史を巡って面白い見方をするので気に入っている作家である。

尊王攘夷
天皇を尊び外夷(外国または外国人に対する蔑称 )をしりぞけることを掲げ,幕府政治を批判の対象とした、江戸末期の政治運動で、そこには下級武士や少壮公卿らが中心にいた。
[尊王も攘夷も、幕藩体制に本来そなわった考え方であるが,幕末に外国船の来航が多くなり、鎖国の維持が危うくなったとき、幕藩体制の秩序を再強化するための政治理論として,尊王攘夷論が登場した。]

稲田騒動
明治維新直後の明治3年に起きた動乱「庚午事変」はその後の淡路の運命を変えていきました。
それは倒幕で功績を残した稲田家臣らが徳島藩に独立を願い出たことが反感を買い、藩士に襲われてその結末が、北海度へ移住や淡路が徳島県[藩]から兵庫県に・・・・。
日本法制史上最後の切腹刑などもありましたが、ほんとうに徳島県と兵庫県ではどちらが良かったのだろうかと考えるのである。

益習館は稲田家臣らの子弟教育を目的に設けられた私塾で、尊王運動に影響を与えた儒学者の頼山陽のほか、西郷隆盛や木戸孝允、山県有朋ら明治維新の立役者も訪れたとされる。
天誅組の重鎮であった古東領左衛門もその一人で、鴨里の次女が領左衛門の妻である。
岡田鴨里は掃守(南あわじ市)出身で、江戸後期〜明治時代の儒者。

岡田鴨里
文化3年8月10日(新暦 1806年9月21日) 津名郡王子村(淡路市王子)生れ、のち掃守村(南あわじ市掃守)の豪商岡田家の養嗣子となった。
明治13(1880)年9月5日歿
文政11年(1828) 22歳の時、京都三本木にあった頼山陽の門をたたいた。山陽は『日本外史』を完成、次の著書『日本政記』の著述にかかっていた。山陽が天保3年(1833)に病没したため、鴨里は僅か4年程教えを乞うたに過ぎないが、高弟の一人となっており、天保5年(1834)『日本外史補偏』『日本外史補偏付録』を山陽に代わって刊行した。編著に『蜂須賀家記』などがある。
在京中、中森節斉・松本奎堂・藤本鉄石などの勤王の志士と知友になった。文久元年(1861)55歳の時、中小姓格の士分にとりたてられ、阿波徳島藩に招かれた。洲本学問所御用をつとめたが、明治維新となり官を退いた。



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