誇り高き僻地
津井(村)を考える。
津井を別の村あるいは町に置き換えて読んで下さい。

近代化以前の「村」は自然村ともいわれ、生活の場となる共同体の単位でありました。
自治会(部落)や消防団の地域分団の編成として最小単位としてあった。
地域には様々な人間関係、経済の関係、自然との関係、過去との関係、信仰の関係など様々であります。

いま津井(村)をとりまく環境は大きく変化しています。
平成の大合併を期に辰美地区にある4つの小学校が辰美小学校に統合され、平成25年度から辰美中学校が廃校となり御原中学校に吸収統合され西淡中学校となり、幼稚園も辰美校区4幼稚園が統合されようとしています。
それらの理由はそれなりにあるのだろうが、住民が参加して議論の末なら納得もできるが、何事も行政で決定した後の報告では住民を説得できない。
津井瓦誌が昨年発行され、ふるさと津井という村がいかに誇れる伝統あるところであるのか歴史からも判かると思います。

土着文化
行政は地域社会における信仰に対してはノータッチだが、道具や衣装は特定の宗教というよりも地域文化という位置づけで補助している。
地域づくりには信仰と絡んだ伝統芸能も含まれており、住民がやる部分と行政がやる部分の分担をうまく考えないと自治はできない。
地域社会を構成するのは、「自然」「生きている人間」「亡くなった人間」が地域を構成している。
柳田国男は「人が亡くなっても死者は遠くに行かない。近くの山に魂は還る。垢をとって自然に溶け込んでいく」と言っている。
自治は生きている人間だけではない。自然と死者の代理人として生きている人間が営んでいる。
祭りや年中行事を実施しながら、自然に守られて生きていくことが自治のしくみとなっているのです。
社会変化によって産業構造が地域社会を変えていく。
過疎化していく地域を見た時、祭りや年中行事が維持されているかどうかというのを目安にできるという識者もいる。

限界集落(ウィキペディアより)
中山間地域や離島を中心に、過疎化・高齢化の進行で急速に増えてきている。このような状態となった集落では集落の自治、生活道路の管理、冠婚葬祭など共同体としての機能が急速に衰えてしまい、やがて消滅に向かうとされている。共同体として生きてゆくための「限界」として表現されている。「限界集落」にはもはや就学児童など未成年者の世代が存在せず、独居老人やその予備軍のみが残っている集落が多く病身者も少なくないという。

「日本創成会議・人口減少問題検討分科会」(増田寛也座長)が5月8日に発表した2040年人口推計結果で、県内でも21市町・行政区が20〜39歳の女性(若年女性)が10年の半数以下となる「消滅可能性都市」とされた。各市町や県は人口減少対策に取り組んでいるが、「消滅可能性」との言葉に、職員からは驚きの声も上がった。
国立社会保障・人口問題研究所(社人研)が用いた数値などを基に、10〜15年の人口移動状況がおおむね同じ水準で続くとの想定で独自に算出。出産する女性の約95%が20〜39歳であることから、若年女性が減少すれば、総人口の減少に歯止めがかからないとし、焦点を当てた。
県内で「消滅可能性都市」とされたのは、洲本市、三木市、丹波市、神戸市須磨区、香美町、佐用町など21市町・行政区。30年間で若年女性の減少率が最も高いのは、新温泉町の70・0%。佐用町68・2%▽上郡町65・1%▽朝来市63・5%▽香美町63・0%▽神河町61・7%−−と続き、6市町で6割以上減るとされた。
中田勝久市長は「(少子化対策に)積極的に取り組んできた成果が見られる」と強調。「今後も『子どもを産みたい、育てたいまち』を目指し、各種施策に積極的に取り組みたい」とのコメントを発表した。

自分たちの手で、暮らしを守り、豊かな地域をつくる
今まで住民は行政に与えられたものを受け取るだけだった。
要するに「人間の幸せ」に関わることすべてを行政に頼っていたということだろう。
しかし、行政に頼るだけでは、自分たちの暮らしは豊かにならないし、自分たちの地域を守ることはできない。せめて「人間の幸せ」の分ぐらいは自分たちで守らなくてはならない。高齢化が進み、若い人が少なくなり、地域や家を支える人がいなくて大変だという話をよく聞く。
しかし、逆に高齢者が若い人を支えるという考え方もあっていいのではないか。なんでも若い人にしてもらうという考えではなく、まずは年寄りがお互いに支え合い、自分たちで安心して暮らせる地域をつくらなくてはならないと考えている。
まずは自分たちでできることを精一杯やること。そうすれば、若い人も一生懸命仕事をして、定年した後に帰って来たいと思える地域になる。
何にもせずに、いつまでも帰ってこない若者のことを嘆いていても誰も帰ってこない。

資本主義社会とは、金もうけをするための経済活動が基本ですが、人々は自由に好きな職業に就き自由な方法で商売が出来るという社会です。
だから競争によって勝った者だけが得をするというのもそのシステムの特徴です。
しかし競争だけが資本主義のルールではないという例がいくつかあります。
「からし明太子」や「さぬきうどん」などは地域ブランドとして成功事例の典型でしょう。
その他にもいろいろありますが、かつて一世を風靡した「鯛の活造り」は鳴門鯛を活け作りにした料理法で、うめ丸の先代社長の藤川梅市氏が阿那賀・丸山の旅館や民宿に呼びかけて漁師町を売り出すことに成功しました。
地域ブランドの成功は、その地域の経済を支えることになりますから、説得ある誰もが納得することを一丸となって取り組むことが望ましいと思っております。

地域の商工業を守る。
簡単なようで、そのことが最も重要な事であるのかは、何をするにもゼニが要るということです。
地域内で働く人がいると住民税や固定資産税がはいる。
事業所が元気ならば雇用も生まれ、人口が増えることで過疎化等の問題も何もかも解決してくれます。
資本主義社会は競争だというけれど、大きな目で見れば大都会と地方との戦いでもある。
何でも競争、安ければいいという考え方も一理だが、淡路島の架橋時代は、JV(複数の企業等が共同で事業を行う組織)として地域を守っていこうとした政治がありました。
たとえ小さくても地方自治体はひとつの社会システムですから、その中には人が生きていくための基本的な構成が必要です。いわゆるインフラというものです。
(インフラ:生産や生活の基盤を形成する構造物)
ダム・道路・港湾・発電所・通信施設などの産業基盤、および学校・病院・公園などの社会福祉・環境施設

人々が生きていく社会を支えているのは人です。
自治体は農業・商工業による経済的な支えなくては成り立ちません。
何でも入札、数万円の僅かな額のものまで競争させて、儲けること罷りならんなどという、お役所の考え方を誰も直そうとしない。
自分たちだけの取り分(給料)だけは横に退けておいて、それから施策を行おうとするのである。
予算は国民・住民から集めたものだから、社会のために使うものである。

資本主義社会は何といってもお金です。
地方自治体の財源には、自らの権限で収入しうる財源と、国を経由する財源で自治体の裁量が制限されている財源とがある。
自主財源の中心は言うまでもなく地方税であり、そのほか、条例や規則で徴収できる使用料や手数料なども自主財源である。
依存財源の典型は国庫支出金(補助金)であり、地方交付税も国の一般会計を経由してくることもあって依存財源とされる。
国の借金が一千兆円を超えたというニュースから、いつまでも親方日の丸行政は続かない。
望ましいのは、自主財源である。

行政の継続性を考えてみる。
命を守る仕事、公共でしかできない仕事、市役所は住民に身近な基礎自治体として、市民生活をしっかりと支える責任を果たしていくべきである。
根幹的には、組織として一貫性を持って継続していくべきと考えております。
NHKの大河ドラマ「軍師官兵衛」が放映されています。
戦略とは「総合的・長期的な計略」という意味がある。
まちを良くするには、この戦略がやや欠如しているように感じています。
行政の方向性もあるが、事業の見直しがあったりする中で、ぜんぜん戦略性など感じ取れない。
何かしら成果をだすためには、最低でも5年間くらいは同じことを取組まないといけないと思っている。5年経って、「ようやくこの事業は花開くかもしれない・・・」と思えてくるが、2,3年で、方向性が変わってしまっていつの間にやら消えてしまっていることがある。その理由は、要望した側や自治体の担当者が変わってしまったことがなど理由は多々ある。
この戦略性というか長期性が、多くの地方自治体の現場には欠如しているようで、ぜんぜん成果の芽がでてくる前に、違う事業に走ってしまう。
地域には知恵やエネルギーがあるものだ。それをどう生かしていくか、どう形にしていくかが大事なことだ。地域の理解と協力さえあれば、なんでもできる。
施設の運営、事業の実施などを自分たちでやると、いままでボーっとして人たちにも「なるほど!」という気付きが生まれる。やはり地域づくりは自分たちの手でというのが基本なのだ。
地域の暮らしは守れない。どうしたいのかというのを自分たちで議論し、行政に提言をして実行していくべきだ。
道路が狭いならば、土地を出して道を広げればよい。学校が無くなりそうなら、子どもの居る世帯が住めるように住宅整備をすればよい。お店がなくなったら、自分たちで経営すればよい。働く場所がないならば、仕事をつくればよい。
行政がやってくれないから何もできないという考えで止まるのではなく、どうしたらできるかを自分たちで考え、行政に提案しなくてはならない。

市民の政治参加というのも大切な事なのだが・・・・。
地方自治はいざとなったら直接住民が決められる仕組みである。
国政においては間接民主制で、選挙によって代表者が決まり、政府の決定は代表者に委ねられ、世論で反応する民主主義の仕組みができている。
自治体はいざとなったら直接住民が決めることができる。直接民主制の土台の上に間接民主制がある。
国民は首長を直接選べないが、自治体はできる。
国民は国会を解散させることはできないが、市民は市議会を解散させる事ができる。
また、自治体は1/50の連署で条例案を直接提案できる。
自治体というものは、権力行使も市民が直接やることができる。
首長や議会は常に住民の事を考えてやらないといけない。常に市民の意思に基づいてやることが求められるのである。
市民自身が、自分達で対話をして、合意をつくりだしてこそ、首長を動かし、議会を動かし、行政を動かすのである。この様なことがあって初めて主権者として行政を動かすことになるのだと思う。
「出たい人より出したい人」といわれているが、むかしは地方議員は無給の名誉職で、辞退すれば公民権停止や市町村税が増税されるなどのペナルティがあったくらいだそうです。
だから地域で誰が多く納税していて、誰がリーダーにふさわしいかを皆が知っていたと言えます。また、選挙は国民の義務ではなく国民の権利であり、勝ち取った納税者の権利なのです。
いまの世の中は、立候補することで選挙が行われる候補者制度です。
それが民主的なのかはよく判りませんが、その弊害は多くあります。
それと同様に自治会いわゆる部落長というものだが、いつの間にやらその年代になってくると(区長をする歳ごろ)、同級生で順番にやっている例がたくさん出てきております。
戦前から戦後のある時期までは大地主など財力のある家系の人たちが村長となっていることが多かったが、誰でもが村長になれるという民主化の影響なのだろう。
その該当年令になってくると隣保長が投票用紙を配って、住民の中から選ばれて区長が誕生しておりました。
隣保長は輪番制だが、部落長は曲がりなりにも選挙というシステムを使っていた。
副部落長を経て部落長になるので、二年間かけて部落の事について関わっていくことになり、それが順繰りに続くので地域の問題は引き継がれていく事になっていた。
ところが最近では部落長と副部落長が1年の任期で同時に替わるので、いくら新旧引継ぎの事務連絡が行われたとしても、実務的なことがないことになる。
そのことは多くの問題点となると思うが、それを指摘することができないのも田舎が廃れていく原因でもある。
部落長(自治会長)の相談役というか顧問的な何らかの組織が必要ではないかと思っております。

下手な文章でごめんなさい。
参考にしたのは「東京財団週末学校」でした。
http://tkfd-shumatsu-gakko.jp/

「万事塞翁が馬」
遠くで汽笛を聞きながら

♪悩み続けた日々が まるでうそのように
忘れられるときが 来るまで心を閉じたまま
暮らしてゆこう 遠くで汽笛を聞きながら
何もいいことが なかったこの街で

谷村新司 作詞 堀内孝雄 作曲の名曲です。
アリス

(2番)
♪俺を見捨てた人を 恨んで生きるより
幼い心に秘めた むなしい涙の捨て場所を
探してみたい 遠くで汽笛を聞きながら
何もいいことが なかったこの街で

…この曲って幼い頃に親に捨てられた子供の歌だそうです

(3番)
せめて一夜の夢と 泣いて泣き明かして
自分の言葉にうそは つくまい人を裏切るまい
生きてゆきたい 遠くで汽笛を聞きながら
何もいいことが なかったこの街で

こんな寂しい夜は一晩だけ、夜通し泣いていたけれど、やっぱりお母さんは帰ってこなかった……
「すぐ戻るからね」 とウソをついてもう二度と帰ってこなかった……
だから “自分の言葉にうそは つくまい人を裏切るまい”
自分はうそをつかないようにしよう。裏切らないようにしよう。相手を悲しませないように。

いまさらながらアリスの歌はいいですね。


室生犀星の詩を思い出しました。

ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや


この詩を詠んだ背景には私生児として生まれ、両親の顔を見ることなく養子に出されたことや「お前は妾の子」だと揶揄されて育ったことが深く関係しているそうです。
この詩に限らず小説でも血統・誕生・故郷・家・命・人と自身の生涯を色濃く反映する作品を書いています。
室生犀星は加賀藩の足軽頭だった小畠家の小畠弥左衛門吉種とその女中であるハルという名の女性の間に私生児として生まれ生後まもなく、近くの雨宝院という住職の内縁の妻に引き取られ、その妻の児として育てられ、その後7歳のとき住職の室生家に養子として入ったそうである。

中国の故事に「人間万事塞翁が馬」というのがある。

「人間(じんかん)」とよむ。
日本で言う人間(にんげん)の事ではなく、世間という意味。
「塞翁」というのは、城塞に住んでいる「翁=老人」という意味。
「城塞に住む老人の馬がもたらした運命は、福から禍へ、また禍から福へと人生に変化をもたらした。
まったく禍福というのは予測できないものである。

人生は「山あり谷あり」とは言い尽くされた言葉だが、どう生きていくかがその人間の生きた証として残る。

「万事塞翁が馬」といっても現場をどうやって生きるかは心の問題でしょうね。



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