東日本大震災救援、被災地慰問 (平成23年)11月18日
東日本大震災救援、被災地慰問 (平成23年)11月18日
東日本大震災は、2011年(平成23年)3月11日に発生した。
地震の規模はモーメントマグニチュード 9.0で、日本周辺における観測史上最大の地震である。
震源は岩手県沖から茨城県沖までの南北約500キロメートル、東西約200キロメートルのおよそ10万平方キロメートルという。
最大震度は宮城県栗原市で観測された震度7で、宮城・福島・茨城・栃木の4県36市町村と仙台市内の1区で震度6強を観測した。
正式名「東北地方太平洋沖地震」それに伴って発生した津波、およびその後の余震により引き起こされた大規模地震災害。
この地震に伴って福島第一原子力発電所事故が起こった。
(wikipediaより)

発生から8ヶ月経ってから、東日本大震災救援、被災地慰問に行ってきました。
淡路島復興NPOの方から誘われてである。
これまでに阪神淡路大震災にも、仲間に誘われてボランティア活動に参加した経験はあるけれど、誰でもボランティア精神は持っているけれど自分で企画しての行動はなかなか起こせない。
ボランティア活動の主体が何であるかよっても人を集められるかもあるように思う。
NPOメンバーでないけれどいい機会だったので喜んで参加させてもらった。
長距離になるので運転の交代要員のつものでしたが、運転には自信がある方ではないけれど、そんなことを言っていたのでははじまらない。
チャーターした淡路貨物とNPOのメンバーが平行して走るのである。


震災救援、被災地慰問物資

 米 一袋2kg(1.0t)

 玉ねぎ一袋1kg2玉(0.5t)

 レタス一袋0.5 kg1玉(0.25t)

 キャベツ一袋1.2 kg1玉(0.6t)

 お菓子一袋2ヶ(1,000ヶ)

 紙袋(ビニール袋)約600袋

東北へまっしぐら

平成23年10月18日早朝6時30分、賀集公民館を出発し、舞鶴・北陸・磐越自動車道を通り、会津若松市まで向かう。
道中、糸魚川とか信濃川、柏崎など子供の頃地理で習った川や地名が出てきて、東北ははじめてなので社会科の勉強を思い出す。
柏崎原発は2007年の新潟県中越沖地震による被害で、運転を停止していたことなどもニュースになったなあと思い出したりしていた。
高校時代の親友が土建屋をやっていて、当時柏崎原発の工事にいっていたように思う。
旅とはいろいろな記憶と組み合わせて考えると面白いものだ。
寒いところへ行くのだからと、参加した皆さんは衣類を準備していたようだが、とても暖かい旅でした。日本アルプスも遠くに積もった雪を見せていたがいつ降った雪だろう。
初日は会津若松へ夕方に着いて一箇所に救援物資を下ろすだけだと聞いている。
最初の訪問先は会津若松
最初に訪れるのは会津若松だというから、白虎隊を連想する。
NHKの大河ドラマ「八重の桜」の舞台となったところである。

会津戦争
慶應4(1868)年、戊辰戦争が勃発。
薩摩藩・長州藩を中心とする明治新政府軍と会津藩およびこれを支援する奥羽越列藩同盟などの徳川旧幕府軍との間で行われた戦いであった。
会津藩は旧幕府派(東軍)として最後まで抵抗、悲劇として有名な「白虎隊」の話がある。
白虎隊は各所で苦戦を強いられ、飯盛山へと落ち延び、そこから眺めた市中火災の模様を、若松城が落城したものと誤認して悲観、自刃を決行した。

隊員たちは鶴ヶ城に戻って敵と戦うことを望む者と、敵陣に斬り込んで玉砕を望む者とのあいだで意見がわかれ、いずれにせよ負け戦覚悟で行動したところで 敵に捕まり生き恥をさらすことを望まなかった隊員らは、城が焼け落ちていないことを知りながらも飯盛山で自刃を決行した。
白虎隊は、明治維新という大きな時代の流れの中で、ふるさと会津をまもるという、純粋な気持ちで戦場におもむいた、16、17歳の少年たちの悲劇である。
会津若松市に移住(避難)させられている大熊町
第一日目に訪れた最初の慰問先は、福島第一原発事故で会津若松市に移住(避難)させられている大熊町の方々に救援物資を届けることでした。
大熊町
福島第1原発を抱え、福島県大熊町(渡辺利綱町長)は会津若松市役所追手町第2庁舎で役場機能を再開した。大熊町住民約2千人が、町長ら幹部が一時避難した田村市などから会津若松、喜多方、北塩原の県内2市1村の旅館やホテルに移った。4月中旬からは会津若松市内の廃校を使い、町立幼稚園、小中学校を開設。大熊町は人口約1万1500人だが、集団避難した住民以外は県内外に逃れた。

淡路にいる時もテレビで見て知っていたが、大熊町の選挙真っ最中。
仮住まいの会津若松市に疎開している中で、町長、町議、福島県議会のトリプル選挙選挙なのだから、本当に大変な状況であることを実感した。
選挙中ということで、役場を通して救援物資で届けるのは難しいと考え、仮設住宅でお世話しておられる方を探して届けることにした。翌日大熊町の副町長さんからお礼の電話を頂きました。
「ふるさとに戻る」というのと、余所に「村ごと疎開しよう」とする二つが争点だといっていた。淡路に帰って知ったが、出来るだけ早くふるさとに戻りたいという現職の渡辺利綱氏の再選となったようですが、誰が当選しても大変な政治となることは間違いないでしょう。
福島第1原発各号機の状況
福島第1原発各号機の状況

1号機 水素爆発
・福島第1原発で爆発と白煙 4人ケガ(2011年3月12日)
・福島第一1号機、核燃料の7割破損…東電試算(2011年3月16日)
・1号機、核燃料3分の2以上溶融の可能性も(2011年3月24日)
・福島第1原発 炉心溶融をめぐる経緯(2011年4月13日)

2号機 爆発
・爆発音の2号機、何が起きた?…専門家の見方(2011年3月15日)
・福島2号機「冷却」に欠陥、致命傷安全3原則、破綻(2011年3月15日)

3号機 水素爆発
・福島第一原発3号機の水素爆発、けがは11人(2011年3月14日)
・爆発する福島第1原発3号機(2011年3月14日)

4号機 爆発・火災
・高濃度放射能漏れ 福島4号機で水素爆発(2011年3月15日)
・福島第1原発4号機、燃料プールの水温上昇(2011年3月15日)
・福島第一4号機で火災、爆発音も屋根には損傷(2011年3月15日)
・福島第一原発4号機、超高濃度放射能が拡散(2011年3月15日)
・4号機爆発「3号機排気で」裏付け(2011年8月28日)

※東京電力福島第一原発の汚染水貯蔵タンクから、ストロンチウムなどが1g当たり2億3000万ベクレルもの高濃度汚染水が約100トン分、漏洩した原因は、汚染水をタンクに受け入れた後は閉まっているはずの3つの弁のうち2つが開いていたためとわかった。弁が開いていたのは故障なのか、人為的ミスなのか、あるいは故意なのか。疑問が深まっている。 (3年経った2014年2月20日のニュースより)

第一日目の宿泊、御宿東鳳(会津若松市)
第一日目は19:時30分到着予定が少し遅れたが、沼島の花嫁○○さんのお父さんに紹介して頂いたホテル(御宿東鳳)に着きました。
お父上はバス会社の元専務さんで、今は退職されているが部下だった方がホテルにまで来られて色々お世話していただきました。
 初の日は余りにもいいホテルで、料理も美味しかったのでお酒も沢山いただきました。
「東日本大震災救援、被災地慰問事業第一弾」のとき、南あわじ市に被災地出身の方に、「20年前の沼島の花嫁」がいることに気付き、お話をすると「私が案内します」となって、6月の被災地慰問事業に参加して下さったそうである。
今回は18歳の娘さんが、大学受験で東京へ行くことになり、その同行で今回は慰問事業に参加できませんでした。道中、彼女の話に夢中で道を間違うこともありました(笑)

「沼島の花嫁」というテレビ番組を簡単に説明すると・・・・・
二十年ほど前「沼島の春」というTBSのテレビ番組、島田伸介が司会で、佐藤B作と磯野キリコなどが嫁不足に悩む沼島にどうにかお嫁さんを! というもので、テレビの企画番組としては大ヒットとなりました。その成果として確か8組のカップルが誕生したように記憶しています。
2日目
第2日目は会津若松を7時半に出発して磐越・東北・釜石自動車道を通って、遠野市にある遠野総合福祉センター内に遠野まごころネットがあると聞いているので、そこに救援物資を届ける予定になっていた。
遠野市被災地支援ネットワーク「遠野まごころネット(遠野被災地支援ボランティア)」
東日本大震災で被災した岩手県沿岸部の被災者の方々を支援するべく、遠野市民を中心として結成されたボランティア集団です。
長い歴史の中で、三陸地方と深い絆で結ばれてきた遠野郷の市民として、この困難を分かち合い、復興・再建に向けて、三陸地方の方々と共に行動しようというものです。
長期に渡る、物資および人的支援が必要になることから、沿岸地域への移動時間が1時間という遠野市の地の利を活かし、全国各地からのボランティアや支援物資等を受付けていることから、今回訪れることになりました。私たちが支援物資を届けた日にも300人ほどのボランティアで現場に行ったそうです。遠野まごころネットは、遠野から沿岸地域は片道約40km。

遠野を朝出発して沿岸地域でボランティア活動を行い、暗くなる前に遠野に帰ってきても、十分に余裕があります。
また遠野市内はライフラインや商店なども通常営業しており、ボランティア生活をする上でも不自由なく過ごすことができます。
まごころネット内に宿泊場所があり、ぜひ活用してくださいとのこと。
被災地の惨状
地震、津波、そして火の海……震災直後撮影された(youtubeの映像より)

これからの予定は、遠野市を午後2時出発して釜石市、大槌町経由、気仙沼市までの長距離を走って、インターネットのYouTubeで津波の酷い光景を見ることの多い気仙沼へ行くことなっていた。

気仙沼まで何故行くかというと
 前回『東日本大震災救援、被災地慰問事業第一弾』(6月)に、気仙沼の被災状況を見るために走っているときに、吉田三喜男氏に呼び止められたそうです。
3月11日の震災直後、大沢漁港にいた吉田さんは自宅前の高台に逃げた。避難してきた住民約50人と共に、地区の南と北からそれぞれ襲ってきた波がぶつかり合い、20メートル近い高さに達するのを目の当たりにした。震災から1週間で、瓦礫と化した集落から住民22人の遺体を捜し出した。大沢で生まれ育ち、旧唐桑町職員も務めた吉田さんは「自分がやるべきだと思った」と話している。
そういう吉田さんと偶然にお会いしたことから、今回の被災地慰問には吉田さんを訪ねることになっていた。
二日目の宿泊地を考えると、距離的時間的にも無理は承知だったが、今回の被災地慰問は吉田さんのいる大沢地区へ行くことは最重要な目的でもあった。
吉田さんと再会の喜びも束の間、救援物資をお渡しして2日目の宿泊地リゾート松島へと夜道を突っ走った。
リアス式海岸を走りぬけ
森進一の「盛り場ブルース」に出てくる地名だから震災さえなければ楽しい旅のはずだったのに、そうはいかない。
リアス式海岸というのは地図でみると入り組んだ湾の繰り返しだが、現実に走ると南あわじ市の阿万から吹上げ浜、ジャノヒレ、福良湾から刈藻、阿那賀の地形のようなものだが、それの繰り返しが何百キロと続く。
半島を走ったり長いトンネルを潜り抜けたり、知らない夜道を走り抜けるのだが、運転はKさんひとりだったので気の毒だったが、知らない道なので自信もないので替ろうかと言い出せなかった。
ホテル到着は深夜になるのは覚悟なので、食事は前回6月にも食べた焼肉屋が気に入っていたので、迷いながらもやっと探し当て、アルコールが入ったので、同行してもらっているトラックの運転手が代行運転手に早や代わり(^o^)
 無事ホテルに入ったのが深夜の11時でした。

3日目
いよいよ東日本大震災救援、被災地慰問最終日となった。
昨夜は深夜に着いたので寝るだけだったが、ホテルは松島の島々を見渡せる高台にあった。朝食後はベランダでコーヒーを飲みながら記念撮影。
いろいろ計画があるのでホテルを7時30分に出て、ゆうべ遅い夕食を食べた焼肉屋の駐車場に置いて帰ったので、トラックを取りに行き救援物資を石巻市仮設住宅に届けてボランティア活動は終わりとなる。
これまでの福島県や岩手県とは違って、宮城県では9月以降のボランティアの受け入れは事前に予約されたグループ及び団体のみ、受け入れるが、その他は行政はノータッチとなっているそうだ。ボランティアは自分らで活動なり救援物資を配らなければならないようだ。

石巻市の(トゥモロービジネスタウン)は何百戸もある大規模な仮設住宅集落で、自治体といってもいいぐらいだから、そこは村長がいてもいい程である。
全国から救援に多くの人たちが訪れているようだが戸惑うのではないかと思った。
 私たちは仮設住宅の入口にあったコンビニで、自治会長などがいればそこを訪ねていこうと聞いてみたが判らないという。
そうしていると、トラックに救援物資を積んで止まっているのを見つけて、ひとりのおばさんが布団が欲しいと近寄って来た。このような個人に救援物資を配りだすと、収拾が着かなくなるのではないかと思っていたが、案の定おばさんのご亭主と思われる人が布団を欲しいと近づいてきた。
 被災者の救援に来たのだから、誰でも構わないが、やはりここのリーダーに届けて、公平にわけるようにしなければ、要領のいいズルイものだけが得をするのは、NPOとして許せないのである。
最後の救援物資を届ける


その仮設住宅で全てを降ろさずに、被災者にできるだけ満遍なく行き届くようにと、道路を隔てた仮設住宅にも行きました。
 そこは27戸の小さな仮設住宅があり集会所でもあるかと探したが見当たらないので、一軒の若い主婦に事情を話して、救援物資を差し上げるからと、家から家へと伝令で走り回ってもらい、お年よりと女性や子供達が集まってきた。この27件の仮設集落は、救援物資は何処からも貰ったことがないと聞くと、最後にこういうところに届けられたことで、こちらも気持ちの上で最後に締め括りとしての活動となりました。

女川町を視察
震災前の女川町
女川町の中心は女川港周辺で、役場も銀行も商店街もある人口約1万人だったそうだ

前回このNPOが6月に来たときに、女川だけはゼッタイ見ておく価値があると聞いていたので、石巻周辺と女川町を視察に行くことになった。
このあと東京へも寄ることになっているので、ゆっくりと昼飯を食っている間もないので、コンビニで弁当を買って走りながら食べた。
『淡路島振興NPO 東日本大震災救援、被災地慰問事業第二弾』もなんとか目的も無事終えたので、昨夜通った気仙沼の方面へ戻ることになったが、昨夜は深夜で何も見えなかったが、瓦礫の山があちこちにあって東日本大震災の規模の凄さがわかる。
 地震で地盤沈下して海面と地面との境が無くなって、石積みして応急対策した現場をみながら、もっとも被害が大きかったといわれる女川港まで一目散に走った。
車の燃料が乏しくなり、補給しようと探したが、道路端の商店はまだ殆ど営業していない。道路端に店を開いても、住民が戻ってこなくては商売にならないからなのだろう。
海産物を売っているお店の前にガソリンスタンドを見つけてやっと補給をした。

眼を覆いたくなる悲惨さ
郊外というか高台にある住宅があったが、被害がなかったと喜んではおれない大災害に襲われた人たちの複雑な心境も知っておかなければならない。
 いずれにしても、勤務先が津波で流され働き場がなくなり、地域経済が回らなくなっているのである。このような時にこそ役場が必要だと思うが、8ヶ月も経っているから無いはずはないだろうとは思うが・・・・・。
 家屋の倒壊や辛うじて倒れなかったものの津波でカベが吹っ飛んでガラン洞になっているなど、被害の大きかったことが想像できた。
まるで四角い箱をひっくり返したような
4階建てのビルが基礎のまま津波によって倒されているが、そのまま放ってある。
四角い箱がひっくり返ったというのと同じ状態なのです。
震災は宇宙規模、挑んで勝てるというのだろうか?
地盤沈下(2メートル近い)と瓦礫を見て、8ヶ月も経っているのにこの様である。政治の貧弱さを悲しく思った。

あちこちに遺体の発見された場所なのか、花が飾られているのを見て涙が出てきます。倒れていたビルの傍に、花束が手向けられていた。「瓦礫」の下にはまだまだ数多くの行方不明者も眠っているはず。肉親にしてはやり切れず、諦め切れない日々ではないだろうか。

この報告書は再掲載しておりますが、東日本大震災から3年半が過ぎてしまったけれど、日本政府の対応の不味さが露になり、こんな人たちに「国民の生命と財産」を任せられないと考えている人が多くなった。
いわゆる政治不信というものだ。

県立淡路病院の建て替えを洲本川尻、洲本港から50メートルのところに建設しました。南あわじ市福良湾には防災ステーションも建て、その横に人形会館をまでも建設して営業中である。
兵庫県は神戸ハーバーランドにこども病院を移転したり、大きな施設を移設していますが、地震や火山噴火などは地球規模のものだから、技術過信は人間の驕りであり自然の力に負けた場合は想定外だったと言い訳をする。

卑怯ではないかい!
三日間の総走行距離は 2,628km
この東日本大震災救援、被災地慰問の予定は、11月18日に出発して20日深夜に帰ってくるはずだったが21日朝7時半になってしまった。還暦を過ぎた爺ぃばかりの長距離爆走の旅でしたが、社会貢献という意味ではしんどかったけれど、なんとなく嬉しくもあり達成感というすがすがしい気持ちを味わった。

三日間の総走行距離は 2,628kmだったそうだ。
この成功は完璧な計画にありました。

11月18日(金)
 1.洲本IC〜神戸西IC(本四道路区間)
 2.神戸西IC〜三木JCT(山陽道)〜神戸JCT(中国道)〜吉川JCT(舞鶴若狭道)
〜小浜西IC(NEXCO区間)
 3.敦賀IC(北陸道)〜新潟中央JCT(磐越道)〜会津若松IC(NEXCO区間)
11月19日(土)
 4.会津若松IC〜郡山JCT(東北道)〜花巻JCT(釜石道)〜東和IC(NEXCO区間)
 ―.遠野市〜釜石市〜大船渡市〜陸前高田市〜気仙沼市〜南三陸町〜石巻市〜東松島市〜
松島町 
11月20日(日)
 5.鳴瀬奥松島IC〜利府中IC(宮城県道路公社区間)
 6.利府中IC〜利府JCT〜富谷JCT(東北道)〜郡山JCT〜川口JCT(NEXCO区間)
 7.川口JCT〜江北JCT〜板橋JCT〜竹橋JCT〜江戸橋JCT〜京橋JCT〜汐留JCT〜浜崎橋JCT〜芝浦JCT〜台場IC(首都高速区間)
 8.台場IC〜浜崎橋JCT〜一ノ橋JCT〜谷町JCT〜大橋JCT〜東京(首都高速区間)
 9.東京IC(東名)〜豊田JCT(伊勢湾岸道)〜四日市JCT(東名阪道)〜亀山JCT(新名阪)〜草津JCT(名神)〜吹田JCT(中国道)〜神戸JCT(山陽道)〜三木JCT〜神戸西IC(NEXCO区間)
 10.神戸西IC〜洲本IC(本四道路区間)


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