淡路島の歴史を見る |
拾い集め淡路年表 |
江戸時代後期、いわゆる幕末 |
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幕末の尊王精神 |
天誅組の組織 |
高取城攻撃と八月十八日の政変 |
天誅組の大和挙兵日譜 |
「皇軍御先鋒」ああ虚し |
尊王攘夷、勤皇活動の極み |
天誅組の大和挙兵日譜(1) |
天誅組の大和挙兵日譜(2) |
8月19日(新暦10月1日) 五條中村の庄屋與市から銀10貫を差し出させ、また、近くの庄屋にも米、道具、衣類を差し出させて村民に分配する。 古東領左衛門が「朝議急変、大和行幸中止」を知らせに来る。 夕方、紀州勢が橋本に到着する。中山忠光ら二見村まで出陣する。 軍議で平野らが再起を期せよの主張(三条からの指示)と吉村の大楠公のごとく死力を尽くし、各地の勤王の士が彷彿として起つのを待つ意見が対立。結局、徹底抗戦と決まり皇室との繋がりや天然要塞の十津川方面の本陣移動、要害堅固な天の辻へ移すことを決める。 8月20日(新暦10月2日) 吉村寅太郎が乾十郎を案内として十津川郷に出向き兵を募る。中山忠光らの本隊は坂本(大塔村)に宿陣、五條には池内蔵太、安積五郎、水郡善之祐父子、荒巻羊三郎、磯崎寛ら60人が留守を守る。高取藩が天誅組に武器を差し出す。 朝廷は、天誅組の挙兵が勅命によるものでないことを公布する。 8月21日(新暦10月3日) 忠光らは戦略の面(阪本は窪地で本陣に不適切)から天辻峠へ引き返す。 天ノ川辻(大塔村)を本陣とする。上田宗児らが高野山に参戦の協力を要請するため、紀州(和歌山)富貴村の大庄屋名迫治郎右衛門宅に行く。 幕府は大和郡山藩に追討を命ずる。 ※天誅組追討を督励する触書 8月22日(新暦10月4日) 橋本若狭が同志をつれて天ノ川辻の本陣に来る。 上田宗児らが高野山に行く。 五條留守居池内蔵太が高取藩に米を差し出すように督促する。 8月23日(新暦10月5日) 高野山が天誅組に忠誠を誓う。吉村寅太郎が、十津川郷に出向き兵を集める。橋本若狭が再び天ノ川辻に来て作戦を練る。 幕府は、大和の高取・柳本・芝村・小泉・柳生・田原本の七藩に追討を命ずる。 8月24日(新暦10月6日) 上田宗児らが高野山から帰る。 幕府は、和歌山・彦根・津(藤堂)藩に追討を命ずる。 8月25日(新暦10月7日) 十津川郷の兵約一千人が天ノ川辻に集まる。全軍出発。夕方、大和郡山勢の出陣と聞き、天誅組は五條に勢揃いして北に向かう。本隊は重坂峠を越えて戸毛村(御所市)に進み、吉村寅太郎の一隊は風森を越えて御所方面に向かう。 早朝までに、田中主馬蔵ら1200人の十津川郷士が天辻本陣に集合。休憩なしに高取城(2万5千石・兵250人)奪取に向かう。五條の陣に伝令より追討の郡山藩兵が御所に現れたのを知る。全軍を2隊に分け、忠光の本隊が高取へ、吉村の支隊が郡山勢を向かい討つために御所方面に向かうが十津川兵の体力は限界に達す。重坂峠(五條から約7kの地点)で本隊は夜半過ぎ休止する。鳥ヶ峰で高取藩は防衛に徹し、堅固な陣地を築き待ちかまえる 8月26日(新暦10月8日) 高取城を攻撃。朝、天誅組は高取藩城下土佐町の西、鳥ケ峯に押し寄せ、高取藩兵と交戦するがたちまち総崩れとなる。中山忠光らは天ノ川辻に引きあげる。この夜、吉村寅太郎らは夜襲を計画し、途中、高取藩の浦野七兵衛と一騎打ちの最中に、味方の銃弾に当たり傷を負う。 天誅組の被害が戦死約10名・捕虜約50名に対し高取勢は軽傷2名のみ。重坂峠まで引き返し本隊の敗兵をまとめるが、忠光のさい配に不満が広まる。御所の吉村の支隊は御所まで行き、追討軍は誤報としり一泊し引き返す。支隊は本隊と遭遇し、吉村は忠光に激高。高取城下では吉村は十津川兵ら24人で高取城を夜襲するが誤って味方の弾が吉村の下腹部に命中し遁走戸毛村で村の医師の応急手当を受ける 8月27日(新暦10月9日) 吉村寅太郎らが正午頃重坂村に到着後本格的に治療し夜五條に戻るが忠光は天辻に逃げ帰っていた。和歌山・津藩は五條に、彦根・郡山藩などは下市に迫っていた 8月28日(新暦10月10日) 紀州藩柴山勢が五條二見村まで来る。 吉村寅太郎らは天ノ川辻に残り防戦の計画を練る。 本隊は16キロ奥の長殿村に移動。 8月29日(新暦10月11日) 中山忠光らは十津川村長殿に滞陣する。吉村寅太郎らは忠光の命令に応じず、ますます防戦態勢を整える。紀州藩柴山勢が五條桜井寺に入る。同藩、水野勢が五條に来たが、まもなく橋本に引きあげる。同藩津田勢が高野山に出陣する。 8月30日(新暦10月12日) 中山忠光ら十津川村風屋に宿陣。 藤堂藩勢が五條今井村に来る。郡山藩勢が下市に来る。 高野山三寶院の納所沢田実之助が、天誅組と連絡を取ったとの理由で捕われる。 忠光らは吉村を待つが結局新宮に向かいゆっくり風屋まで進む。 津藩が五條に布陣郡山藩が五條の東数キロの所(現在の大淀町)に布陣 京都では孝明天皇が各藩に忠光討伐の催促をする。 9月1日(新暦10月13日) 中山忠光らは十津川村風屋に滞陣。 紀州藩兵が恋野村に来たが、天誅組はこれを焼き討ちする。 彦根勢が桧垣本(大淀町)に来る。吉村寅太郎は、紀州藩家老で田辺城主の水野大炊に書面を送り天誅組義挙の大義を説く。 9月2日(新暦10月14日) 中山忠光らは、更に南下して武蔵村(十津川村)に宿陣する。 京都の朝廷はしきりに天誅組の追討を督励する。紀州勢は五條から中村に移る。藤堂勢は五條に入る。 9月3日(新暦10月15日) 中山忠光らは武蔵村に滞陣。紀州藩勢の法福寺組が富貴村に来る。 吉村は忠光に追討軍は混乱しているので五條から血路を開き脱出したいと伝言 9月4日(新暦10月16日) 中山忠光らは引き返して十津川村風屋に帰る。諸藩は競って天誅組の追討を画策する。 9月5日(新暦10月17日) 中山忠光らは辻堂に帰陣する。 天誅組は、渋谷伊與作(常陸脱藩)を五條にいる藤堂勢の陣屋に使いに出し、挙兵の大義を説かせたが抑留される。 9月6日(新暦10月18日) 中山忠光らは天ノ川辻に帰陣する。上田宗児、半田門吉らは、更に十津川郷に兵を募りに出かける。天誅組は、富貴村を焼き討ちする。 紀州勢が富貴口に迫る。彦根・郡山・小泉勢は下市方面から脇川(黒滝村)道に迂回する。軍議で北曽木(五條の手前数キロ)に砦を築き追討軍を向かい討ち、隙を突き堺へ向かうことが決まる、十津川に逃げた郷兵を再度募兵に向かわせた。 追討軍の連絡・役割がようやく決まる和歌山藩は高野山から富貴をぬけ左翼を攻撃津・伊賀上野藩は五條から和田を経て正面を攻撃彦根・井伊勢と郡山藩は下市から十日市をぬけ正面に彦根藩別働隊は下市から洞川を迂回し阪本をぬけ後方を固める小泉・高取など大和各藩は下渕付近を固める。 9月7日(新暦10月19日) 北曽木陣地構築は準備終了後、忠光らは途中(大日川)に伊賀上野藩約650名と接触(北曽木防衛作戦が水の泡となる)大日川で午後3時過ぎから3時間近く戦闘が続く 藤堂勢は五條に退く。 天誅組は陣を夜中村に移す。白銀岳で橋本若狭らが屯営場所として準備栃原と樺ノ木峠の塁に水郡善之祐隊(河内勢)最前線の広橋峠に橋本若狭隊(地元勢)と安岡嘉助(土佐)や松実富之助ら平田沼に本隊と遊撃隊 9月8日(新暦10月20日) 幕府軍は総攻撃を10日と定めて攻囲軍諸藩に命じた。総兵力14000人に及ぶ諸藩兵は各方面から進軍、天誅組は善戦するものの、主将の中山忠光の命令が混乱して一貫せず兵たちは右往左往を余儀なくされ、忠光は人望をすっかり失ってしまった。脱退する者も出始め天誅組の士気は低下する。天誅組は、栃原(下市町)に築いた土塁を彦根勢(滋賀)に奪われ、白銀岳の本陣に退く。郡山勢は広橋にせまる。 9月9日(新暦10月21日) 栃原を占領した彦根藩は藤堂藩の加勢を受け白銀岳を襲撃天誅組は陣を死守、黒滝の彦根藩が逃げた橋本若狭隊を討つ為、丹生に引き返し襲撃、丹生川上神社下社を焼く。 かろうじて逃げた若狭らは森下幾馬ら20名と下市の彦根藩を夜襲下市の建物約五百件が消失(天誅の大火)。忠光の本隊は大日川に敵迫る(天辻への退路)の報を聞き河内勢に連絡せず移動。 9月10日(新暦10月22日) 藤本鉄石中心の軍議で河内脱出を断念し十津川で体制建て直し時期を待つことが決定。 大日川藤堂勢総攻撃を開始、天誅組は総崩れで和田に撤退、藤堂勢は深追いをせずに五條に安積らの別働隊が北曽木の砦を取り戻し、水郡らはなお丹原まで進み陣をはる。吉村・安積・水郡・吉田重蔵・石川一の幹部らをのぞき各隊が戻る弾薬が尽き、体力消耗も問題になる。 9月11日(新暦10月23日) 前線の幹部に連絡せず中山忠光らは天ノ川辻に移る。水郡善之祐らの河内勢は、天誅組を離れる。水郡らが戻るとまたも忠光が退却したのを知り激怒、河内勢・十津川勢の一部と吉田重蔵など17名は本隊と決別することを決定し十津川へ。 9月12日(新暦10月24日) 忠光らは小代(大塔村)に宿陣。追討軍の天ノ川辻総攻撃が始まる。紀州藩は鳩ノ首峠を占領する。忠光の本隊は、吉村ら30人を残し十津川へ撤退。 9月13日(新暦10月25日) 中山忠光らは上野地に滞陣。藤堂藩が大日川の陣を奪取。 9月14日(新暦10月26日) 藤堂勢が天ノ川辻に迫り、天誅組の殿軍は天ノ川辻を放棄して十津川に退く。この日、忠光等の本陣は十津川村上野地にあった。 和歌山・藤堂藩の兵3000名で攻撃吉村ら30名は退却。 9月15日(新暦10月27日) 中山忠光らは、なお上野地に滞陣する。京都にあった十津川郷士が、朝廷の勅旨を伝え忠光に十津川からの退去を迫る。吉村ら着後、十津川離脱と風屋移動を聞き落胆。 9月16日(新暦10月28日) 吉村寅太郎が上野地に着く。中山忠光らの本陣は風屋に移る。 天誅組はついに十津川を退去することを決め、伴林光平、平岡鳩平(大和)らが先発する。竹志田熊雄(熊本)が病死する。 竹下熊雄(肥後)は乾十郎の妻亥生(初の従軍看護婦)の看病のかいなく死亡亥生は臨月の重身と6歳の長男をつれ五條から天誅組を追いかけ隊士を看病し天辻で出産(軍次郎)、その後本隊と離れ和歌山藩に捕らえられ大坂へ。 9月17日(新暦10月29日) 中山忠光らは小原(十津川村)に宿陣。南進伴林光平ら別働隊(退路探索の名目で)は北山郷から前鬼へ。 9月18日(新暦10月30日) 中山忠光らは下葛川(十津川村)に宿陣。伴林光平らは白川(上北山村)に宿る。 藤堂勢、郡山勢、彦根勢、紀州勢は十津川村長殿に入る。 9月19日(新暦10月31日) 中山忠光ら本隊は笠捨山に野宿する。 進退窮まった忠光は遂に天誅組の解散を命じた。天誅組の残党は山中の難路を歩いて脱出をこころみるが、重傷を負っていた吉村寅太郎は一行から落伍してしまう。 9月20日(新暦11月1日) 中山忠光ら北山郷浦向(下北山村)に着く。伴林光平ら川上郷入之波に着く。東(伊勢)への道は望みなしと知る。水郡善之祐らが十津川で危難にあう。 9月21日(新暦11月2日) 中山忠光らは白川(上北山村)着く。林泉寺に宿陣。脱出路探索のため先行していた伴林光平、平岡鳩平、西田稲夫が、鷲家口から宇陀方面に向かったときには、追討軍は鷲家口に着陣していなかった。 9月22日(新暦11月3日) 追討が十津川経由で下北山から北上する 中山忠光らは白川滞陣。この夜、伴林光平は駒塚(法隆寺付近)の我が家に帰る。 水郡善之祐らは進退に困り、紀州藩兵に自首する。紀州勢は橋本に宿陣する。本隊は伯母谷村へ伴林光平らは鷲家口から宇陀の松山・黒崎(桜井)を経て額田部(郡山)へ。 9月23日(新暦11月4日) 追討の諸藩が続々鷲家口付近に集結。 中山忠光らの白川出発に際し、人夫が逃げ、村役人も来ず。天誅組は持ってきた荷物を本陣に積み重ね、林泉寺もろとも焼き、軽装して出発する。夜を徹して伯母ケ峯峠をこえ、川上村の武木に向かう。彦根勢、上市に滞陣する。 9月24日(新暦11月5日) 中山忠光ら本隊は五本桜着、武木で最後の昼食をとり、足ノ郷峠を越え鷲家口に向かう。追討軍の彦根勢は鷲家口、紀州勢は鷲家を固める。 鷲家口突入の最後の軍議を開く追討軍の本陣に那須信吾の決死隊6名が、忠光らを脱出させるため鷲家口に突入、その隙に本隊20名は鷲家口を通過。本隊(その時17名)は後方警備のものものしさをみて離散し大坂長州屋敷で再会を指示。 中山忠光、上田宗児、伊吹周吉、島浪間、半田門吉、山口松蔵、萬吉の7人は巧みに逃れ、鷲家口を脱出する。野崎自宅の近くで割腹。 那須信吾は中山忠光を逃すべく決死隊を編成して敵陣に突入して討ち死に、藤本鉄石も討ち死にし、負傷して失明していた松本奎堂は自刃した。 9月25日(新暦11月6日) 天誅組の三総裁以外ほとんどが捕らわれるか殺された視力を失っていた松本と藤本らは東の山中に逃亡し、松本は射殺。藤本らは伊勢街道まできて、警備のすごさに観念し敵の本陣に突っ込み討死。決死隊6名全滅忠光ら7名は岩清水経由で三輪から3日で大坂へ 伴林光平が田原村(生駒市)にて捕われる。 田所騰次郎、磯崎寛、安積五郎、岡見留次郎、鶴田陶司、酒井傳次郎ら6名は、丹波市付近で藤堂藩兵に捕われる。 安岡嘉助は市尾村(高取町)で高取藩兵に捕われる。 9月26日(新暦11月7日) 前田繁馬、関為之進の2名は、慈恩寺(桜井市)にて藤堂藩兵に銃殺される。 9月27日(新暦11月8日) 鷲家口を脱出した中山忠光ら一行は、大坂の長州藩邸に入り、さらに長州に逃れる。 負傷し置き去りの吉村寅太郎は3日間鷲家谷の山小屋で過ごすが発見され藤堂藩兵に銃殺される。天誅組は壊滅した。 9月28日(新暦11月9日) 土居佐之助、安岡斧太郎らは多武峯鹿路村で捕われ、楠目清馬は多武峯倉橋村で自刃する。 9月29日(新暦11月10日) 秦将蔵は初瀬にて戦死する 文久4年(1864) 2月16日(新暦3月23日) 安積五郎ほか18名が京都にて処刑される。 元治元年(1864) 7月20日(新暦8月21日) 水郡善之祐ほか13名が京都にて処刑される。 10月2日(新暦10月31日) 河内脱退勢8人は和歌山から京都六角獄舎に送られる。 11月5日(新暦12月3日) 天誅組の主将、中山忠光が長州にて暗殺される。 元治2年(慶応に改元)(1865) 2月10日中山忠伊平野海願寺にて自刃した 2月16日伴林光平京都にて刑死 |