淡路島の歴史から・・・
淡路島の歴史を見る
淡路島の歴史から
歴史年表を見ながら、これはどういう時代だったかを考える。
時系列で見ていくことで改めて気が付くことも多い。
講釈師は「見てきたようなうそを言い」というけれど、一介のネットワーカーがweb上でパクッたものを繋ぎ合わせて講釈師のまねごとをしようとしています。
物語と小説とはどう違うのかなどと深く考えると頭が痛くなってしまいます。
わが故郷に関する歴史のおさらいをしながら、年表に書き込みながらやっていこうとしています。
淡路島には、世の中を大きく変えたり、時流の中で埋もれていった話などある。
小説や映画で見る人物を英雄視しがちだが、司馬遼太郎のような作家が書くことで一大ヒーローとなったのが坂本龍馬である。
それに匹敵するか、それ以上の人物も淡路島にいたような気がする。
歴史を見ていくことで、現在の社会の在り方を考えたりすることもある。
これからも歴史は延々と続いていくのである。
歴史上に名を残す人間にはなれないけれど、もう一度淡路島の歴史を見てみよう。


※続日本紀
平安時代初期に編纂された勅撰史書。
淳仁天皇(天平5年(733年) - 天平神護元年10月23日(765年))
日本の第47代天皇(在位:古文書では廃帝または淡路廃帝と呼ばれる。
天平宝字8年(764年)、上皇との対立を契機に恵美押勝の乱が発生、上皇より「仲麻呂と関係が深かったこと」を理由に廃位を宣告され、天平宝字(764年)、親王の待遇をもって淡路国に流される。

※淡路銅鐸
2015年5月に南あわじ市松帆地区で見つかった弥生時代(紀元後3世紀中頃までにあたる )中期の銅鐸7個がニュースとなり考古学者の注目を集めている。
「日本書紀には、シカやイノシシなどが多く生息する淡路島に応神、履中、允恭天皇が狩猟に訪れた記述がある。
天皇と淡路島を関係づけるにはいろいろあるだろうが、特別な地であったことは素人にも判る。

これから書き続けていこうとしているのは、幕末の時代であります。
文化・文政年間(1804〜1829)は、伊能忠敬が日本中を歩き回って日本地図を作るなどから推測すると平和な時期であったと思われる。
いわゆる幕末の時代、日本の夜明け、明治維新にまつわる話は多い。
小説などに取り上げられるのは戦国時代の混乱期や明治維新の頃が多く、これらの時代に登場する人物の行動は誰しも興味がある。
平和な時代には文化が発達し、激動の時代には「人物」を、とくに豪快な人を作るのではないかと思う。
拾い集め淡路年表
ネットや書物から寄せ集めた淡路に関する年表

くにうみ神話

(伊邪那岐命と伊耶那美命は)その島(淤能碁呂島)に天降って、天の御柱と八尋殿を建てました。
ここで、(伊耶那岐命が)妹の伊耶那美命に
「あなたの身体は、どのようにできていますか」
と問うと、伊耶那美命は
「私の身体には、成長して、成長していないところ(女陰のことを示す)が1ヶ所あります」
と答えました。そこで、伊邪那岐命は
「私の体には、成長して、成長し過ぎたところ(男根のことを示す)が1ヶ所あります。そこで、この私の成長し過ぎたところで、あなたの成長していないところを刺して塞いで、国土を生みたいと思います。生むのはどうですか。」
と述べました。伊耶那美命は
「それはよいことでしょう」
と申しました。
伊邪那岐は左回りに、伊邪那美は右回りに天の御柱を巡り、出会った所で伊邪那美が「あなにやし、えをとこを」と伊邪那岐を褒め、伊耶那岐が「あなにやし、え娘子(をとめ)を」と伊邪那美を褒め、二神は性交する。しかし、女性である伊邪那美の方から男性の伊邪那岐を誘ったために、ちゃんとした子供が生まれなかった。二神は、最初に産まれた子供である水蛭子(ひるこ)を葦舟に乗せて流してしまい、次にアハシマが産まれた。水蛭子とアハシマは、伊邪那岐・伊邪那美の子供の内に数えない。
二神は別天津神のもとに赴き、なぜちゃんとした子供が生まれないのかを聞いた。すると、占いによって、女から誘うのがよくなかったとされた。そのため、二神は淤能碁呂島に戻り、今度は男性の伊邪那岐から誘って再び性交する。

ちょっと卑猥だけれど

くにうみ神話(古事記より)
(ウィキペディア --フリー百科事典--より)

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1467 応仁1
六代舘主細川成春宗家細川勝元を助勢し応仁の乱に出陣

1479 文明11
賀集八幡神社拝殿再建天王寺より瓦師を招く

1485 文明17
養宜舘の細川成春没53後継は細川尚春

1504 永正1
淡路水軍の菅和泉守道忠志知城を築く

1510 永正17
三好軍淡路細川家討伐のため淡路に攻め入る。養宜舘城主細川勝忠夫妻自刃、淡路細川氏滅亡

1534 天文3
阿那賀姫女館城主武田山城守久忠伊加利金山城を攻める
伊加利金山城の城主橋本永貞入道興斎討死

1558 永禄1
福良の大綱引き始まる

1581 天正9
羽柴秀吉軍の黒田孝高志知城を攻め阿波三好方の野口孫五郎長宗落城

1586 天正14
亥の刻天正大地震〔白川地震〕M8,1震源御母衣断層

1591 文禄1
志知城主加藤嘉明志知蜷ヶ瀬で軍船を造る

1594 文禄3
松帆江善寺に朝鮮役戦死者供養塔を建立

1600 慶長5
豊臣政権の内部分裂による戦い(東軍徳川家康と西軍石田三成ら奉行衆との戦い。天下分け目の戦いでもあった。)

1615 元和1年
蜂須賀二代至鎮大阪冬の陣の戦功により淡路七万石を加増される

1616 寛永3
津井村住民貧困(寛永の飢饉)から尼崎の法華宗本興寺に借銀を申し出同時に法華宗に改宗法華僧から瓦製造法を伝授される。
津井隆泉寺真言宗から法華宗に改宗、この時書かれた改宗起請文は10名の連記で日付は霜月朔日

1640 寛永17
寛永の飢饉この時より寛永19年まで飢饉続く

1641 寛永18
大雨洪水旱魃霜虫害が発生するなど全国的な異常気象餓死者数十万人

1651 承応1
美女池開発北阿万の田村利長工事にかかる(織田信長家臣田村春良の子孫)

1703 元禄16
伊豆で元禄地震発生M8
阿万瓦のはじまり津井の瓦師古東平右衛門の長男平兵衛が阿万東村で瓦を焼く

1706 宝永3
この頃洲本の戸数町人951戸4,171人武士310戸1,600人

1707 宝永4
宝永地震M8.4有史以来最大規模のものとされている大津波で煙島の摩尼山紅蓮寺と人家多数流失

1716 享保1
刈藻誓海庵主勝算和尚国清庵二代庵主に就く畚(ふご)和尚

1730 享保15
伊加利庄屋の仲野安雄『淡路常盤艸』『もずのくさ』を著す

1731 享保17
この年から翌享保18年にわたる大飢饉沼島で一年間に300人餓死、西南海道にいなごの大群発生西日本各地を襲い作物は大打撃をこうむる被害は西日本諸藩の46藩に及び総石高136万石のうち収穫は63万石程度となる。「徳川実記」餓死者969,900人(内46藩の餓死11,000人)斃牛馬14,139頭

1763 宝暦13
淡路の水夫数1,141人船1,908艘内廻船416艘漁船1,541艘
三原郡114村7浦(13組)津名郡116村15浦

1769 明和6
高田屋嘉兵衛都志本村で出生

1781 天明1
頼山陽出生(歴史家、思想家、漢詩人、文人)
金屋村忠筋村九ヶ村百姓大宮寺の鐘を合図に木綿会所と縄供出への不満を訴え。広田中筋の与頭庄屋佐治太夫宅に押寄せ百姓七人捕らわれる。首謀者の広田宮村才蔵と山添の清左衛門刑死桑間川原にさらし首

1783 天明3
天明の大飢饉数ヵ年続く死者数十万人淡路島民困窮

1784 天明4
飢饉に続き惨状甚だしく、餓死者40,850人病死者14,000人に達す。
山口吉十郎陸斎福良で出生(父は庄屋山口屋吉兵衛鈴木重胤の師)

1795 寛政7
高田屋嘉兵衛千五百石積みの「辰悦丸」を秋田土崎湊で建造

1796 寛政8
高田屋嘉兵衛箱館の回船問屋白鳥勝右衛門と商取引をはじめる
淡路焼創始者賀集a平(豊七郎惟一)出生

1801 享和1
高田屋嘉兵衛ウエップ島上陸クナシリ航路を発見「蝦夷地常雇船頭」に任じられる

1805 文化1
津井村の家数301軒で瓦納屋は48軒『三原郡津井村棟付人数御改帳』

1806 文化3
岡田鴨里津名王寺村庄屋砂川家で出生、後掃守の豪商岡田家へ養嗣

1808 文化5
伊能忠敬一行16名淡路岩屋〜福良間を測量(第六次測量)
伊能忠敬一行再び撫養より福良へ来島二隊に分れ内陸部と西浦を測量

1811 文化8
高田屋嘉兵衛捕えられる(ゴローニン事件)

1813 文化10
露艦がを送還

1814 文政7
勤皇志士増井文太賀集内ヶ原で出生

1815 文政8
勤皇志士武田萬太夫(幼名喜三蔵)福良飛松家三男として出生

1816 文政9
高田屋嘉兵衛塩尾港を開く、八幡南村に森大蔵

1819 文政1
勤皇志士古東領左衛門津井村庄屋万次郎長男として出生

1827 文政10
高田屋嘉兵衛歿59才

1829 文政11
福浦元吉備前町桶商の津村家次男として出生、洲本幸町の穀物商中尾家へ養子

1831 天保3
天保飢饉天保3年から10年まで異常気象冷害疫病蔓延による大飢饉
上八木で百姓一揆街送り人夫御役御免と値上げを求めて集まり庄屋佐野助作宅へ押寄せる。首謀の上八木組頭柏木孫七郎は罰せられ弥三郎と林太は追放

1833 天保4
高田屋嘉兵衛家を追放処分
通称「登龍」津井から阿万に移住し製瓦を始める

1834 天保5
藩淡州高田屋嘉兵衛家を取り消し処分にする
岡田鴨里『日本外史補偏』『日本外史補偏付録』を頼山陽に代わって刊行

1837 天保8
大坂東町奉行所元与力で陽明学者大塩平八郎中斎窮民救済を求めて乱を起す

1841 天保13
淡路の人口119,147人

1850 嘉永3
江井の田中辰蔵堺から熟練工を招き原料の杉葉粉購入して線香製造

1851 嘉永4
勤皇志士備前池田藩の藤本鉄石淡路来訪
増井文太、武田万太夫勤皇隊を組織し賀集福井法花寺に訓練場を造る

1853 嘉永6
黒船(ペリー)来航

1854 嘉永7
日米和親条約
ペリーが軍艦9隻を率いて江戸湾へ入港、日米和親条約が締結される。
イギリスともその年に和平条約が結ばれた。
安政大地震
伊賀上野で大地震M7,8伊賀大和死者1,600人
東海大地震M8.4震源浜松南方80K関東近畿で犠牲者数千人
31時間後再び南海道大地震発生M8,4、淡路の犠牲者300人
全国の被害全壊家屋10,000余戸半壊家屋40,000余戸焼失家屋1,500余戸、流失家屋15,000余戸死者約3,000人と推定道後温泉湧出止まる。
高知で約1,1m隆起甲浦1m地盤沈下紀伊田辺領内で推定波高7mの津波が襲来。大阪湾北部には波高1.5mの津波が襲来木津川安治川を逆流し8,000隻が破損。この地震の余震はその後9年間に1,981回その内大地震は7回あったと伝えられる。

1855 安政改元
地震続発により旧11月17日より嘉永を安政に改元

安政1
この頃淡路の瓦株31
津井村庄屋古東領左衛門淡路津井港の改修に着手
ロシアとも和平条約が結ばれる。

安政2
オランダ)とも条約を結ぶこととなり、200年以上続いた鎖国政策は崩れ去ることになる。

1856 安政3
安部喜平(瑞穂)私塾「積小軒」を開設

1857 安政4
吉田松陰「松下村塾」を開き、若者の指導を始める。
津井隆泉寺の長松清風(日扇上人)京都蛸薬師で本門仏立講を開く。
三木善八(明治から大正期に活躍した新聞経営者)淡路国洲本町の農家に生まる。

1858 安政5
日米修好通商条約孝明天皇が日米修好通商条約締結に反対して、攘夷の決意を示す徳川家茂第14代将軍になる安政の大獄

1859 安政6
津井村庄屋古東領左衛門北阿万美女池の改修をはじめる
引続き伊加利里長仲野安雄が奉行となり三年後美女池の工事完了

1860 安政7
桜田門外の変

1861 文久1
武市瑞山が土佐勤王党を結成(坂本龍馬、中岡慎太郎、吉村寅太郎等)。藤本鉄石、安積五郎津井古東家逗留尊皇派の松本奎堂洲本訪問

1862 文久2
公武合体の象徴として、皇女和宮が将軍家茂に嫁ぐ
寺田屋の変孝明天皇攘夷の勅書を将軍家茂に授ける

1863 文久3
下関戦争(攘夷決行長州藩がアメリカ艦船を砲撃)薩・英戦争(イギリス艦隊が薩摩藩の艦船3隻を拿捕)
8月13日孝明天皇の大和行幸、攘夷親征の詔勅が出される
古東領左衛門福浦元吉伊藤聴秋大阪で勤皇活動に奔走する
「淡路勤皇志士」三田昂馬高津例太郎富永包方藤木蕉陰

1864 文久4
禁門の変(蛤御門の変)長州藩、薩摩・会津・桑名藩に敗れる第一次長州征伐長州藩敗れる。長州藩保守派が台頭
古東領左衛門獄死

1865 慶応1
長州藩内戦高杉晋作が奇兵隊を組織して挙兵、尊王倒幕派が藩政を再び握る

1867 慶応3
坂本龍馬の周旋により薩・長連合成立第二次長州征伐幕府軍敗退徳川慶喜15代将軍に就く孝明天皇急死

1868 慶応4
福良の勤皇志士武田萬太夫賀集増井文太釈放

1870 明治3
稲田騒動(庚午事変)

1871 明治4
北海道移住静内移住(稲田騒動により)
淡路全島名東県に編入

1877 明治10
安部喜平淡路新聞を創刊

1879 明治11
湊と津井漁区紛争

1880 明治13
淡路汽船洲本〜阪神間就航
岡田鴨里(周輔喬)没75
淡路の人口177,000人

1881 明治14
山口組初代組長山口春吉仮屋で生まれる

1883 明治16
淡路新聞344号で廃刊

1893 明治16
福良で副業として素麺の製造始まる
〔MK磁石〕発明者三島徳七(旧姓喜住)広石で出生

1897 明治30
三原郡の荷車運搬車114台、瓦工場108、三原郡医師30、薬剤師3、鍼灸45、按摩99、産婆14、看護婦10、売薬440

1911 明治45
淡路鉄道KK設立認可により発起人総会開催


江戸時代後期、いわゆる幕末
民間人でありながら日本とロシアとの国際紛争を解決した
高田屋嘉兵衛(明和6年(1769年)-文政10年(1827年))
五色町の都志に生まれ育った高田屋嘉兵衛(たかたやかへえ)は、北前船を操り、北海道交易を中心に活躍した江戸時代の廻船業者です。貧しい家の出ながら、広大な海に夢とロマンを馳せて22歳で船乗りになり、不屈の精神と優れた航海技術、商業感覚によって巨万の富を築きあげた。また、箱館(函館)の開発やエトロフ島への航路を開くなど、北海道開拓に偉大な業績を残し。また日露外交にも大きな功績を残した。その偉大な生涯は司馬遼太郎の「菜の花の沖」にも描かれています。(淡路島観光ガイド、あわじナビより)

ゴローニン事件]
日本が鎖国政策をとっている間、ロシアは黒テンやラッコの動物の毛皮を求め、どんどん領土を拡張していった。そして、日本に通商を求めてくるようになる。
進出したシベリアは食料生産がほとんどできず、ロシアは日本と貿易することで日本から米などの食料輸入を求め、度々日本に公使がくるようになる。
鎖国政策をとる日本は通商を拒否したが、1807年には、レザノフが、サハリン(樺太)、択捉などで、日本の番所を襲撃した。
このレザノフ指示の襲撃に対して、江戸幕府も報復に乗り出し、国後島付近でゴローニンの身柄を騙す形で確保。
また、このゴローニン拉致へのロシア側報復として、ロシアは商人の高田屋嘉兵衛をカムチャッカに拉致。
嘉兵衛とリコルドは同じ部屋で寝起きし、「二人だけの言葉をつくって」交渉する。 
嘉兵衛はリコルドに、ロシア人による襲撃事件は、ロシア政府が許可も関知もしていないという証明書を日本側に提出することを提案する。
リコルドはその言葉を聞き入れて、高田屋ともに日本に戻り、彼を釈放。
このような北方での日本とロシアの紛争・外交問題をゴローニン事件という。
結局、最後は、ゴローニンと高田屋嘉兵衛の身柄を交換することで、ひとまずは落ち着く
時代の背景
鎖国政策とペルー来航
二百六十年もの長きに亘った徳川幕府の鎖国政策が、ペルー来航に揺れ、日本を救ったのが幕末の志士たちです。
欧州の列国は植民地政策で東南アジアに進出したが、日本が植民地とならなかったのは、幕末の若者の活躍に外ならない。
天保の改革の失敗や、ペリーの黒船来航など世情は揺れ動いている時代であった。
幕府は朝廷の命に反し、外国と通商条約(安政五年1858)を結ぶ。その結果、尊皇攘夷論が各地で起こり佐幕派との対立がはげしくなる。

日本が鎖国政策をとっている間、欧米諸国は近代国家への歩みを進めていく。イギリスにおける18世紀から19世紀前半にかけての産業革命が、他のヨーロッパ諸国やアメリカにも及び、列強各国は植民地の獲得競争に乗り出し、その矛先はアジアにも向けられた。
18世紀末から19世紀はじめにかけて、ロシア船やイギリス船が、日本近海に来航し、鎖国の扉を叩くが、幕府は頑なに鎖国政策を堅持する。
しかし、清国がアヘン戦争でイギリスに敗れたことを聞くと、異国船打払を緩和し、薪水給与令を出し、漂着した外国船には薪水・食料を与えることした。
※薪水給与令
江戸幕府が打ち出した外国船に対して飲料水・燃料の給与を認める法令。

わが国は鎖国を守る姿勢は変わらず、オランダ国王が親書をもって開国を奨めるが、幕府はこれを拒絶して、鎖国体制を守り抜こうとする。
弘化3年(1846)、アメリカ東インド艦隊司令長官ビッドルが浦賀に来航し開国を幕府に交渉した際にも幕府はこれを拒絶し、ビッドルは目的を果たさないで帰国する。

嘉永6年(1853)6月、ペリーは軍艦4隻を率いて大西洋を横断、喜望峰をまわり、インド、中国、琉球を経て浦賀に来航、開国を要求する大統領の国書を幕府に受け取らせます。
嘉永7年(1854)1月、ペリーは軍艦9隻を率い、江戸湾へ入港、ついに日米和親条約が締結されることとなる。
そして、イギリス(嘉永7年8月)、ロシア(安政元年12月)、オランダ(安政2年12月)とも条約を結ぶこととなり、200年以上続いた鎖国政策は崩れ去ることになる。

※アメリカは日本に開国を迫ってきたのは太平洋で捕鯨するにあたり、食料と燃料の補給ができる場所が欲しかったという説もある。

条約の内容は
(1)アメリカ船に燃料や食料等、欠乏品を供給すること
(2)下田、箱館の2港を開き、下田への領事の駐在を認めること
(3)アメリカに一方的な最恵国待遇を与えること。
   等、計12条である。

文久3年(1863)3月4日攘夷の勅命に奉答のため将軍徳川家茂入京
その後、長州藩と三条らが将軍に無理難題を吹っかける
3月11日孝明天皇賀茂社に行幸攘夷を祈願
4月20日幕府5月1日を攘夷期限とする旨を朝廷に返答
5月10日長州藩下関通航の米艦を砲撃
5月23日長州藩仏艦を豊浦沖に砲撃
5月26日長州藩蘭艦を下関に砲撃
6月1日米艦下関を砲撃

老中小笠原図書頭が急進派制圧のため海路大坂へ募兵1400人率いるが、将軍が入京を制止。尊攘派を刺激し倒幕の声が一気に高まる
6月5日仏艦下関を砲撃
6月7日高杉晋作奇兵隊を編成
6月10日仏・英・米・蘭の代表が横浜に会合し長州藩攻撃を決定
6月16日将軍海路で帰府
7月2日薩英戦争起こる
8月4日朝廷三港閉鎖令を幕府に伝達
5日中川宮が御親兵として十津川郷士に出兵準備をさせる

ここからはじまる明治維新の魁となった「大和義挙、大和の乱」、天誅組の決起である。
幕末の尊王精神
明治維新の魁となった「大和義挙、大和の乱」と古東領左衛門

わがふるさとに古東領左衛門という幕末に活躍した人物がおりました。
古東領左衛門は1819年(文政1)4月16日が津井村庄屋万次郎長男として生まれる。
幕末の維新を先駆した人として、吉田松陰は書物になり有名だが、松蔭は文政13年(1830、天保元年)生まれ、古東領左衛門は吉田松陰が生れるより11年前に誕生している。
古東領左衛門などが起こした天誅組の義挙(大和義挙、大和の乱)は、幕末における下級武士と豪農豪商とが一体となった最初の武装反乱で、倒幕及び明治維新の魁として称えられる歴史的なものであった。
天誅組の挙兵は失敗に終わったものの、幕府の威光の失墜を更に進行させる結果となった。
その舞台となった東吉野村(大和五条)や熱血の勤王の獅子たちの出身地ではその勇気を称える話が多い。


「為今度攘夷御祈願
大和行幸
神武山陵春日寺御拝
暫御逗留御親征軍議被
為在其上
神官行幸の事」

好機到来とばかり天誅組主将中山忠光は次のような回状を同志に送り、集合を求めたのである。

今般攘夷御祈願のため大和行幸を仰せ出給ひぬ。これによって忠節を心掛け候我輩一同、御先鋒として大和へ罷り下り、鸞輿を迎へ奉らんため、今日発向の段、治定候につき、有志の徒は正八ッ時(午後二時)限り、方広寺道場へ遅滞なく参着致さるべきもの也
文久三年八月四日
前侍従中山忠光(花押)

※鳳輦(ほうれん)
「屋根に鳳凰の飾りのある天子の車」で、天皇の正式な乗り物。


天誅組
文久三年八月一三日に発せられた大和行幸計画の先駆けとして結成された草莽部隊。
吉村虎太郎の誘いで加わった侍従中山忠光の回状をうけ、京都方広寺に集った三十八名の浪士たちは伏見から堺へと下り、高野街道を東へと進んだ。
そこでかねてからの同志水郡善之助ら河内勢と合流した一行は、南朝ゆかりの観心寺を詣でたのち忠光の筆で攘夷決行の奉請と正式な討幕の勅命を朝廷にもとめ、五条代官所を襲撃する。
ここに「五条御政府」ないし「五条御役所」と称する組織を結成し付近に年貢半減を布告した。
やがて平野二郎が三条実美・真木和泉らの内意をうけ派遣されるも、彼らの挙兵反対には耳をかすことなく、京では八月一八日の政変がおこり天誅組はまったくの孤立状態に落ちいった。すでに五条代官所を襲撃している以上、天誅組は断固決戦の意志をかため、追討令にそなえて本陣を天辻へ移動。
さらに追討軍の襲撃を待たずにこちらから反撃へ転じることに決し、高取城を攻撃したがこれに失敗。
引き続き城に夜襲をかけるべく向った吉村は、味方の誤射で腹部(内股とも)に重傷をおってしまう。
その後、天誅組は各地を転戦しながらゲリラ戦で勝ちを得ることもあったが所詮、大勢に影響を及ぼすことは出来ず、脱落者を出しながらも河内方面への脱出を企図する。
しかし鷲家口方面に布陣する彦根や紀伊藩兵との戦闘において吉村や藤本鉄石、松本奎堂ら三総裁はあいついで自刃戦死、主将中山忠光も池内蔵太らに守られながら長州へと落ちのびたことで、事実上ここに天誅組は壊滅した。

天皇を尊ぶ勤皇派に対して、近藤勇を隊長とする新選組は佐幕派の尊王思想で、憂国の純真な心が悲劇を生んでいるのが日本の歴史かも知れない。
天誅組の志士たちは死ぬまで、自分たちは天皇の忠臣であり、正義のために戦っていると信じていた。
そして、その彼らを殺したのは、他ならぬ天皇自身だった。
これもまた、時代の皮肉と言わねばならない。

天誅組の組織
主将 中山忠光
総裁 吉村虎太郎 藤本鉄石 松本奎堂
側用人 池内蔵太
監察 吉田重蔵 那須信吾 酒井伝次郎 銀奉行 磯崎寛
勘定方 平岡鳩平
記録方 伴林六郎
執筆方 辻幾之助 尾崎濤五郎
小姓頭 渋谷伊予作 石川一
合団方 宍戸弥四郎 森下儀之助
小荷駄奉行 水郡善之助 森本伝兵衛
小荷駄方 前田繁馬
小荷駄方下役 木村楠馬 山口松蔵
武器取調方 安岡嘉助 伊藤三弥
兵糧方 鴨川清三郎 林豹吉郎
兵糧方下役 福浦元吉

天誅組主要隊士名簿

土佐出身
吉村虎太郎 那須信吾 安岡嘉助 池内蔵太 伊吹周吉 上田宗児 木村楠馬
中倉才治郎 土居左之助 森下幾馬 森下儀之助 島並間 沢村幸吉 楠目清馬
鍋島米之助 安岡斧太郎 島村省吾 前田繁馬 田所騰次郎

大和出身
岡見銕蔵 今西甚之助 岸尾徳三郎 北本重次郎 倉本常之助 玉置佐助
山香愛之助 油上覚兵衛 乾虎蔵 丸谷源之助 野崎主計 林浜次郎 林豹吉郎
深瀬繁理 関為之助 熊代竹蔵 島本嘉吉 田中安二郎 中勘蔵 橋本秀助
安田哲吉 尾中要蔵 毛利喜右衛門 良厳 今村文吾 植村定二郎 乾十郎
田中主馬殿 橋本若狭 平岡鳩平

河内出身
伴林六郎 水郡善之助 水郡英太郎 長野一郎 田中楠之助 上田主殿 和田佐市
赤井見龍 吉田八十助 森将蔵 松崎万吉 三浦主馬 森本伝兵衛 吉年米蔵
鳴川清三郎 中村徳治郎 武林八郎 浦田弁蔵

久留米出身
酒井伝次郎 半田門吉 江頭種八 荒巻半三郎 鶴田陶司 山口直蔵 中恒健太郎
小川佐吉

三河出身
松本奎堂 伊藤三弥 宍戸弥四郎

鳥取出身
石川一 磯崎寛 船田彦次郎

淡路出身
古東領左衛門 福浦元吉 田村平一郎

備前出身
藤本鉄石 飯井半平

備中出身
原田一作 原田亀太郎

京都出身
中山忠光 辻郁之助

紀伊出身
沢田実之助 井沢宜庵

常陸出身
渋谷伊予作 岡見留次郎

肥前出身
保母健 尾崎濤五郎

肥後出身 竹志田熊雄

筑前出身 吉田重蔵

江戸出身 安積五郎

伊勢出身 吉川治太夫

宇都宮出身 松本忠来

膳所出身 北達良蔵

讃岐出身 村岡宗四郎

高取城攻撃と八月十八日の政変
大和で天誅組が意気を揚げていたとき、京では政局が一変していた。会津藩、薩摩藩と気脈を通じた中川宮が巻き返しを図り、参内して孝明天皇を動かし、大和行幸の延期と三条実美ら攘夷派公卿の参朝禁止、長州藩の御門警護解任を決めてしまった。驚愕した長州藩兵が宮門に駆けつけ会津・薩摩藩兵と対峙して一触即発の事態になる。結局、長州藩は武力衝突を避けて撤退、攘夷派公卿は都落ちして失脚。朝廷の実権は佐幕派が握ることになった。(八月十八日の政変)

天誅組の大和挙兵日譜
京都の政局は尊王攘夷派が握っていて、真木和泉らが伊勢行幸を提唱し朝議で計画を一部修正のうえ大和行幸の詔勅を布告。
この機をうかがっていた倒幕急進派の中山忠光、吉村寅太郎、藤本鉄石、松本奎堂らが皇軍の先鋒となるため、京都を発ち、千早峠を越えて幕府の直轄地であった五條に入る。

文久3年(1863)8月13日(新暦9月25日)
攘夷祈願のため孝明天皇の大和行幸が発表される。
御親征に名をかりて大和に行幸を乞い、幕府に攘夷の勅命を伝え、幕府がこれを実行しない時は、直ちに違勅の罪を責め、討幕に出て、一挙に王政を復古しようとした。天誅組の大和挙兵は、この大和行幸の御先鋒と自称して行動を起こしたものでる。
                 
                              →吉村寅太郎
8月14日(新暦9月26日)
中山忠光、吉村寅太郎、松本奎堂らが同志38名と京都の方広寺を出発。一行は、伏見から船で大坂に向かう。

8月15日(新暦9月27日)
朝、大坂に着く。すぐに夜船で堺に向かう。
大坂で武器などを調達後、長州への勅使といつわり洋上で方向転換

8月16日(新暦9月28日)
早朝、堺港に上陸。狭山を経て、河内富田林甲田の水郡善之祐邸に到着。狭山藩が天誅組に忠誠を誓い武具等を差し出す。石川氏の白木陣屋、戸田氏の小山陣屋も武具を差し出す。夜明け前、富田林を出発、観心寺着。後村上天皇陵及び、楠正成の首塚に参拝して戦勝祈願をする。藤本鉄石がかけつける。
天誅組の一行は千早峠を越えて大和(奈良県)に入り、幕府五條代官所を襲撃、代官鈴木源内らを討ち取り桜井寺を本陣とする。伴林光平、平岡鳩平たちがかけつける。

8月17日(新暦9月29日)
天誅組は河内檜尾山観心寺に入る。軍資金を調達に出ていた藤本鉄石が合流して出発、国境の千早峠を越えて大和国へ入った。幕府天領の五条に到着した天誅組は、代官所を襲撃することを決める。代官所を包囲した天誅組は代官鈴木源内に降伏を要求。ゲーベル銃隊を率いる池内蔵太が空砲で威嚇し、吉村寅太郎が率いる槍隊が裏門から突入した。代官所の人数は30人程で、意気軒昂な天誅組に抗することができず代官所方は敗北し、鈴木源内は首を刎ねられてしまう。天誅組は代官所に火を放ち、桜井寺を本陣に定めた。

8月18日(新暦9月30日)
天誅組は一軍の役割を決め、挙兵の趣旨を制札にして布告する。。
鈴木源内を梟首し、五条を天朝直轄地として、この年の年貢を半減することを宣言する。天誅組は中山忠光を主将、吉村寅太郎、松本奎堂、藤本鉄石を総裁とする職制を整え、自らを「御政府」または「総裁所」と称した。近隣の高取藩に那須信吾らを恭順勧告に送り、高取藩もこれに服する旨を伝えてきた。一方、天誅組の過激な挙兵を知った京の三条実美は自重をうながすべく平野国臣を使者に送った。


「皇軍御先鋒」ああ虚し
天誅組追討を督励する触書
軍令
一、この挙、元来武家の暴政、夷狄の猖獗によつて、庶民の難苦限りなく候を、深く宸襟を悩まされ候事、傍観に堪えず、止む事を得ざる処なれば、仮令敵地の賊民といへども、本来御民のことなれば、乱暴狼藉、賊貨を貪り、婦女を姦淫し、猥りに神社や家屋等に放火致し、私に隆人を殺すこと、これ有るまじき事。

一、軍事は号令厳ならざれば、一軍の勝負にかかはり候間、違ふ所あるべからず、もし違背する者は、軍中の刑法、歩を移さずといふ事、兼て心得申すべき事。
一、恐れ多き事に候へども、諸軍とも毎朝、伊勢大神宮ならびに京都禁裏御所に向ひ遙拝致し、奉公の外一点の私心を挟まず候段、誓ひ奉るべき事。

一、火の用心第一に致すべく、夜八ツ時以後は、諸小屋とも火を消し申すべく、但し鉄砲隊長の所にては火縄の用意、格別の事。
一、合詞は出陣の度びごと変り候故、総裁職より差し図いたし候条、別言と交らざる様、心掛け専用の事。
一、行軍中、又戦場にては、たとひ数歩のうちに大利大
害これあり候とも、鼓に進み、貝に止まり、鐘に退
く約束、堅く相守り、猥りに動揺あるべからず候事。
一、武器ならびに衣食等は、自他乱雑これなき様、取り始末第一の事。
一、陣中私用にて、他の小屋へ往来すべからざる事。
一、陣中喧嘩口論、酒乱放歌等、総じて高声談話等、致すべからず候事。
一、敵の強き、味方の不利を談じ、兵卒の気をひくじき候儀致すまじき事。
一、戦場に於て、たとひ私の遺恨あるとも見捨て申すまじく、元より味方の勝敗に拘はり候へば、厳科すべき事。
一、敵地往来は勿論、我が親族たりとも私に交通致し候こと堅く禁制たるべし、もし敵中より書状さし越し候はば、封のまま其の部将どもに見せ、監察方にて開封の上、事情密に言上致すべき事。
一、進退、言語、互ひに礼節を守り、僭上不敬、我意を推し立て、功を争ひ、名を競ひ、不和を生じ、果たし合ひ等致し候儀は、其の害、其の罪、賊に準ずべし。

右の条々、堅く相守り申すべく候。この外、敵に利ありて味方に害ある事致し候はば、其の罪籍すべからず。一心公平無私、土地を得ては天朝に帰し、功あれば神徳に帰し、功を有する事有るべからず。我等もし此の儀に違ひ候はば、則ち皇祖天神の冥罰を蒙り、民人親族ともに放れん。汝等もし此の儀に違ひて、私する所これあるに於ては、忽ちに天誅神罰を行はん。汝等宜しく此の儀に在し、其の罪を犯す事勿れ。此に皇祖天神に誓ひ、将軍
士卒に告ぐ。


尊王攘夷、勤皇活動の極み
(鎖国)、海外との交流・貿易を制限する江戸時代の日本の政策でした。
鎖国政策は、徳川幕府が250年も続いた成果として評価に値すものだと思っています。
時代は日本という小さな島国のことを考えているだけでなくなり、グローバルな時代に移っていた。
幕末の尊王思想・攘夷思想は刀を持って軍艦を倒すといった現実離れは鎖国政治が産んだことになるのでしょう。
欧米列強の知識技術を取り入れて、開国思想が小説となって坂本龍馬のヒーロー伝説になったのでしょう。

幕末の時代は尊皇攘夷対佐幕開国の対立では無く現状肯定の(穏健派=守旧派)、(革新派・過激派)という構図となりました。

薩摩藩は倒幕派
長州藩は倒幕派
会津藩は佐幕派
新撰組は佐幕派
御陵衛士は倒幕派

8月17日に倒幕の狼煙を上げるため幕府の五條代官所を襲撃し、櫻井寺に幕府に支配されない日本初の政府である五條御政府を樹立しました。
武力による最初の討幕運動が大和五條において行われました。
[天誅組(天誅組の変)]

天誅組の大和挙兵日譜(1)
京都の政局は尊王攘夷派が握っていて、真木和泉らが伊勢行幸を提唱し朝議で計画を一部修正のうえ大和行幸の詔勅を布告。

文久三年八月十三日大和行幸の勅書が発せられた。
8月13日(新暦9月25日)
攘夷祈願のため孝明天皇の大和行幸が発表される。
御親征に名をかりて大和に行幸を乞い、幕府に攘夷の勅命を伝え、幕府がこれを実行しない時は、直ちに違勅の罪を責め、討幕に出て、一挙に王政を復古しようとした。天誅組の大和挙兵は、この大和行幸の御先鋒と自称して行動を起こしたものでる。

8月14日(新暦9月26日)
中山忠光、吉村寅太郎、松本奎堂らが同志38名と京都の方広寺を出発。一行は、伏見から船で大坂に向かう。

8月15日(新暦9月27日)
朝、大坂に着く。すぐに夜船で堺に向かう。
大坂で武器などを調達後、長州への勅使といつわり洋上で方向転換

8月16日(新暦9月28日)
早朝、堺港に上陸。狭山を経て、河内富田林甲田の水郡善之祐邸に到着。狭山藩が天誅組に忠誠を誓い武具等を差し出す。石川氏の白木陣屋、戸田氏の小山陣屋も武具を差し出す。夜明け前、富田林を出発、観心寺着。後村上天皇陵及び、楠正成の首塚に参拝して戦勝祈願をする。藤本鉄石がかけつける。
天誅組の一行は千早峠を越えて大和(奈良県)に入り、幕府五條代官所を襲撃、代官鈴木源内らを討ち取り桜井寺を本陣とする。伴林光平、平岡鳩平たちがかけつける。

8月17日(新暦9月29日)
天誅組は河内檜尾山観心寺に入る。軍資金を調達に出ていた藤本鉄石が合流して出発、国境の千早峠を越えて大和国へ入った。幕府天領の五条に到着した天誅組は、代官所を襲撃することを決める。代官所を包囲した天誅組は代官鈴木源内に降伏を要求。ゲーベル銃隊を率いる池内蔵太が空砲で威嚇し、吉村寅太郎が率いる槍隊が裏門から突入した。代官所の人数は30人程で、意気軒昂な天誅組に抗することができず代官所方は敗北し、鈴木源内は首を刎ねられてしまう。天誅組は代官所に火を放ち、桜井寺を本陣に定めた。

8月18日(新暦9月30日)
天誅組は一軍の役割を決め、挙兵の趣旨を制札にして布告する。。
鈴木源内を梟首し、五条を天朝直轄地として、この年の年貢を半減することを宣言する。天誅組は中山忠光を主将、吉村寅太郎、松本奎堂、藤本鉄石を総裁とする職制を整え、自らを「御政府」または「総裁所」と称した。近隣の高取藩に那須信吾らを恭順勧告に送り、高取藩もこれに服する旨を伝えてきた。一方、天誅組の過激な挙兵を知った京の三条実美は自重をうながすべく平野国臣を使者に送った。

高取城攻撃
大和で天誅組が意気を揚げていたとき、京では政局が一変していた。会津藩、薩摩藩と気脈を通じた中川宮が巻き返しを図り、参内して孝明天皇を動かし、大和行幸の延期と三条実美ら攘夷派公卿の参朝禁止、長州藩の御門警護解任を決めてしまった。驚愕した長州藩兵が宮門に駆けつけ会津・薩摩藩兵と対峙して一触即発の事態になる。結局、長州藩は武力衝突を避けて撤退、攘夷派公卿は都落ちして失脚。朝廷の実権は佐幕派が握ることになった。(八月十八日の政変)
天誅組の大和挙兵日譜(2)
8月19日(新暦10月1日)
五條中村の庄屋與市から銀10貫を差し出させ、また、近くの庄屋にも米、道具、衣類を差し出させて村民に分配する。

古東領左衛門が「朝議急変、大和行幸中止」を知らせに来る。
夕方、紀州勢が橋本に到着する。中山忠光ら二見村まで出陣する。
軍議で平野らが再起を期せよの主張(三条からの指示)と吉村の大楠公のごとく死力を尽くし、各地の勤王の士が彷彿として起つのを待つ意見が対立。結局、徹底抗戦と決まり皇室との繋がりや天然要塞の十津川方面の本陣移動、要害堅固な天の辻へ移すことを決める。

8月20日(新暦10月2日)
吉村寅太郎が乾十郎を案内として十津川郷に出向き兵を募る。中山忠光らの本隊は坂本(大塔村)に宿陣、五條には池内蔵太、安積五郎、水郡善之祐父子、荒巻羊三郎、磯崎寛ら60人が留守を守る。高取藩が天誅組に武器を差し出す。
朝廷は、天誅組の挙兵が勅命によるものでないことを公布する。

8月21日(新暦10月3日)
忠光らは戦略の面(阪本は窪地で本陣に不適切)から天辻峠へ引き返す。
天ノ川辻(大塔村)を本陣とする。上田宗児らが高野山に参戦の協力を要請するため、紀州(和歌山)富貴村の大庄屋名迫治郎右衛門宅に行く。
幕府は大和郡山藩に追討を命ずる。
※天誅組追討を督励する触書

8月22日(新暦10月4日)
橋本若狭が同志をつれて天ノ川辻の本陣に来る。
上田宗児らが高野山に行く。
五條留守居池内蔵太が高取藩に米を差し出すように督促する。

8月23日(新暦10月5日)
高野山が天誅組に忠誠を誓う。吉村寅太郎が、十津川郷に出向き兵を集める。橋本若狭が再び天ノ川辻に来て作戦を練る。
幕府は、大和の高取・柳本・芝村・小泉・柳生・田原本の七藩に追討を命ずる。

8月24日(新暦10月6日)
上田宗児らが高野山から帰る。
幕府は、和歌山・彦根・津(藤堂)藩に追討を命ずる。

8月25日(新暦10月7日)
十津川郷の兵約一千人が天ノ川辻に集まる。全軍出発。夕方、大和郡山勢の出陣と聞き、天誅組は五條に勢揃いして北に向かう。本隊は重坂峠を越えて戸毛村(御所市)に進み、吉村寅太郎の一隊は風森を越えて御所方面に向かう。
早朝までに、田中主馬蔵ら1200人の十津川郷士が天辻本陣に集合。休憩なしに高取城(2万5千石・兵250人)奪取に向かう。五條の陣に伝令より追討の郡山藩兵が御所に現れたのを知る。全軍を2隊に分け、忠光の本隊が高取へ、吉村の支隊が郡山勢を向かい討つために御所方面に向かうが十津川兵の体力は限界に達す。重坂峠(五條から約7kの地点)で本隊は夜半過ぎ休止する。鳥ヶ峰で高取藩は防衛に徹し、堅固な陣地を築き待ちかまえる

8月26日(新暦10月8日)
高取城を攻撃。朝、天誅組は高取藩城下土佐町の西、鳥ケ峯に押し寄せ、高取藩兵と交戦するがたちまち総崩れとなる。中山忠光らは天ノ川辻に引きあげる。この夜、吉村寅太郎らは夜襲を計画し、途中、高取藩の浦野七兵衛と一騎打ちの最中に、味方の銃弾に当たり傷を負う。

天誅組の被害が戦死約10名・捕虜約50名に対し高取勢は軽傷2名のみ。重坂峠まで引き返し本隊の敗兵をまとめるが、忠光のさい配に不満が広まる。御所の吉村の支隊は御所まで行き、追討軍は誤報としり一泊し引き返す。支隊は本隊と遭遇し、吉村は忠光に激高。高取城下では吉村は十津川兵ら24人で高取城を夜襲するが誤って味方の弾が吉村の下腹部に命中し遁走戸毛村で村の医師の応急手当を受ける

8月27日(新暦10月9日)
吉村寅太郎らが正午頃重坂村に到着後本格的に治療し夜五條に戻るが忠光は天辻に逃げ帰っていた。和歌山・津藩は五條に、彦根・郡山藩などは下市に迫っていた

8月28日(新暦10月10日)
紀州藩柴山勢が五條二見村まで来る。
吉村寅太郎らは天ノ川辻に残り防戦の計画を練る。
本隊は16キロ奥の長殿村に移動。

8月29日(新暦10月11日)
中山忠光らは十津川村長殿に滞陣する。吉村寅太郎らは忠光の命令に応じず、ますます防戦態勢を整える。紀州藩柴山勢が五條桜井寺に入る。同藩、水野勢が五條に来たが、まもなく橋本に引きあげる。同藩津田勢が高野山に出陣する。

8月30日(新暦10月12日)
中山忠光ら十津川村風屋に宿陣。
藤堂藩勢が五條今井村に来る。郡山藩勢が下市に来る。
高野山三寶院の納所沢田実之助が、天誅組と連絡を取ったとの理由で捕われる。
忠光らは吉村を待つが結局新宮に向かいゆっくり風屋まで進む。
津藩が五條に布陣郡山藩が五條の東数キロの所(現在の大淀町)に布陣
京都では孝明天皇が各藩に忠光討伐の催促をする。

9月1日(新暦10月13日)
中山忠光らは十津川村風屋に滞陣。
紀州藩兵が恋野村に来たが、天誅組はこれを焼き討ちする。
彦根勢が桧垣本(大淀町)に来る。吉村寅太郎は、紀州藩家老で田辺城主の水野大炊に書面を送り天誅組義挙の大義を説く。

9月2日(新暦10月14日)
中山忠光らは、更に南下して武蔵村(十津川村)に宿陣する。
京都の朝廷はしきりに天誅組の追討を督励する。紀州勢は五條から中村に移る。藤堂勢は五條に入る。

9月3日(新暦10月15日)
中山忠光らは武蔵村に滞陣。紀州藩勢の法福寺組が富貴村に来る。
吉村は忠光に追討軍は混乱しているので五條から血路を開き脱出したいと伝言

9月4日(新暦10月16日)
中山忠光らは引き返して十津川村風屋に帰る。諸藩は競って天誅組の追討を画策する。

9月5日(新暦10月17日)
中山忠光らは辻堂に帰陣する。
天誅組は、渋谷伊與作(常陸脱藩)を五條にいる藤堂勢の陣屋に使いに出し、挙兵の大義を説かせたが抑留される。

9月6日(新暦10月18日)
中山忠光らは天ノ川辻に帰陣する。上田宗児、半田門吉らは、更に十津川郷に兵を募りに出かける。天誅組は、富貴村を焼き討ちする。
紀州勢が富貴口に迫る。彦根・郡山・小泉勢は下市方面から脇川(黒滝村)道に迂回する。軍議で北曽木(五條の手前数キロ)に砦を築き追討軍を向かい討ち、隙を突き堺へ向かうことが決まる、十津川に逃げた郷兵を再度募兵に向かわせた。
追討軍の連絡・役割がようやく決まる和歌山藩は高野山から富貴をぬけ左翼を攻撃津・伊賀上野藩は五條から和田を経て正面を攻撃彦根・井伊勢と郡山藩は下市から十日市をぬけ正面に彦根藩別働隊は下市から洞川を迂回し阪本をぬけ後方を固める小泉・高取など大和各藩は下渕付近を固める。

9月7日(新暦10月19日)
北曽木陣地構築は準備終了後、忠光らは途中(大日川)に伊賀上野藩約650名と接触(北曽木防衛作戦が水の泡となる)大日川で午後3時過ぎから3時間近く戦闘が続く
藤堂勢は五條に退く。
天誅組は陣を夜中村に移す。白銀岳で橋本若狭らが屯営場所として準備栃原と樺ノ木峠の塁に水郡善之祐隊(河内勢)最前線の広橋峠に橋本若狭隊(地元勢)と安岡嘉助(土佐)や松実富之助ら平田沼に本隊と遊撃隊

9月8日(新暦10月20日)
幕府軍は総攻撃を10日と定めて攻囲軍諸藩に命じた。総兵力14000人に及ぶ諸藩兵は各方面から進軍、天誅組は善戦するものの、主将の中山忠光の命令が混乱して一貫せず兵たちは右往左往を余儀なくされ、忠光は人望をすっかり失ってしまった。脱退する者も出始め天誅組の士気は低下する。天誅組は、栃原(下市町)に築いた土塁を彦根勢(滋賀)に奪われ、白銀岳の本陣に退く。郡山勢は広橋にせまる。

9月9日(新暦10月21日)
栃原を占領した彦根藩は藤堂藩の加勢を受け白銀岳を襲撃天誅組は陣を死守、黒滝の彦根藩が逃げた橋本若狭隊を討つ為、丹生に引き返し襲撃、丹生川上神社下社を焼く。
かろうじて逃げた若狭らは森下幾馬ら20名と下市の彦根藩を夜襲下市の建物約五百件が消失(天誅の大火)。忠光の本隊は大日川に敵迫る(天辻への退路)の報を聞き河内勢に連絡せず移動。

9月10日(新暦10月22日)
藤本鉄石中心の軍議で河内脱出を断念し十津川で体制建て直し時期を待つことが決定。
大日川藤堂勢総攻撃を開始、天誅組は総崩れで和田に撤退、藤堂勢は深追いをせずに五條に安積らの別働隊が北曽木の砦を取り戻し、水郡らはなお丹原まで進み陣をはる。吉村・安積・水郡・吉田重蔵・石川一の幹部らをのぞき各隊が戻る弾薬が尽き、体力消耗も問題になる。

9月11日(新暦10月23日)
前線の幹部に連絡せず中山忠光らは天ノ川辻に移る。水郡善之祐らの河内勢は、天誅組を離れる。水郡らが戻るとまたも忠光が退却したのを知り激怒、河内勢・十津川勢の一部と吉田重蔵など17名は本隊と決別することを決定し十津川へ。

9月12日(新暦10月24日)
忠光らは小代(大塔村)に宿陣。追討軍の天ノ川辻総攻撃が始まる。紀州藩は鳩ノ首峠を占領する。忠光の本隊は、吉村ら30人を残し十津川へ撤退。

9月13日(新暦10月25日)
中山忠光らは上野地に滞陣。藤堂藩が大日川の陣を奪取。

9月14日(新暦10月26日)
藤堂勢が天ノ川辻に迫り、天誅組の殿軍は天ノ川辻を放棄して十津川に退く。この日、忠光等の本陣は十津川村上野地にあった。
和歌山・藤堂藩の兵3000名で攻撃吉村ら30名は退却。

9月15日(新暦10月27日)
中山忠光らは、なお上野地に滞陣する。京都にあった十津川郷士が、朝廷の勅旨を伝え忠光に十津川からの退去を迫る。吉村ら着後、十津川離脱と風屋移動を聞き落胆。

9月16日(新暦10月28日)
吉村寅太郎が上野地に着く。中山忠光らの本陣は風屋に移る。
天誅組はついに十津川を退去することを決め、伴林光平、平岡鳩平(大和)らが先発する。竹志田熊雄(熊本)が病死する。
竹下熊雄(肥後)は乾十郎の妻亥生(初の従軍看護婦)の看病のかいなく死亡亥生は臨月の重身と6歳の長男をつれ五條から天誅組を追いかけ隊士を看病し天辻で出産(軍次郎)、その後本隊と離れ和歌山藩に捕らえられ大坂へ。

9月17日(新暦10月29日)
中山忠光らは小原(十津川村)に宿陣。南進伴林光平ら別働隊(退路探索の名目で)は北山郷から前鬼へ。

9月18日(新暦10月30日)
中山忠光らは下葛川(十津川村)に宿陣。伴林光平らは白川(上北山村)に宿る。
藤堂勢、郡山勢、彦根勢、紀州勢は十津川村長殿に入る。

9月19日(新暦10月31日)
中山忠光ら本隊は笠捨山に野宿する。
進退窮まった忠光は遂に天誅組の解散を命じた。天誅組の残党は山中の難路を歩いて脱出をこころみるが、重傷を負っていた吉村寅太郎は一行から落伍してしまう。

9月20日(新暦11月1日)
中山忠光ら北山郷浦向(下北山村)に着く。伴林光平ら川上郷入之波に着く。東(伊勢)への道は望みなしと知る。水郡善之祐らが十津川で危難にあう。

9月21日(新暦11月2日)
中山忠光らは白川(上北山村)着く。林泉寺に宿陣。脱出路探索のため先行していた伴林光平、平岡鳩平、西田稲夫が、鷲家口から宇陀方面に向かったときには、追討軍は鷲家口に着陣していなかった。

9月22日(新暦11月3日)
追討が十津川経由で下北山から北上する
中山忠光らは白川滞陣。この夜、伴林光平は駒塚(法隆寺付近)の我が家に帰る。
水郡善之祐らは進退に困り、紀州藩兵に自首する。紀州勢は橋本に宿陣する。本隊は伯母谷村へ伴林光平らは鷲家口から宇陀の松山・黒崎(桜井)を経て額田部(郡山)へ。

9月23日(新暦11月4日)
追討の諸藩が続々鷲家口付近に集結。
中山忠光らの白川出発に際し、人夫が逃げ、村役人も来ず。天誅組は持ってきた荷物を本陣に積み重ね、林泉寺もろとも焼き、軽装して出発する。夜を徹して伯母ケ峯峠をこえ、川上村の武木に向かう。彦根勢、上市に滞陣する。

9月24日(新暦11月5日)
中山忠光ら本隊は五本桜着、武木で最後の昼食をとり、足ノ郷峠を越え鷲家口に向かう。追討軍の彦根勢は鷲家口、紀州勢は鷲家を固める。
鷲家口突入の最後の軍議を開く追討軍の本陣に那須信吾の決死隊6名が、忠光らを脱出させるため鷲家口に突入、その隙に本隊20名は鷲家口を通過。本隊(その時17名)は後方警備のものものしさをみて離散し大坂長州屋敷で再会を指示。
中山忠光、上田宗児、伊吹周吉、島浪間、半田門吉、山口松蔵、萬吉の7人は巧みに逃れ、鷲家口を脱出する。野崎自宅の近くで割腹。
那須信吾は中山忠光を逃すべく決死隊を編成して敵陣に突入して討ち死に、藤本鉄石も討ち死にし、負傷して失明していた松本奎堂は自刃した。

9月25日(新暦11月6日)
天誅組の三総裁以外ほとんどが捕らわれるか殺された視力を失っていた松本と藤本らは東の山中に逃亡し、松本は射殺。藤本らは伊勢街道まできて、警備のすごさに観念し敵の本陣に突っ込み討死。決死隊6名全滅忠光ら7名は岩清水経由で三輪から3日で大坂へ
伴林光平が田原村(生駒市)にて捕われる。
田所騰次郎、磯崎寛、安積五郎、岡見留次郎、鶴田陶司、酒井傳次郎ら6名は、丹波市付近で藤堂藩兵に捕われる。
安岡嘉助は市尾村(高取町)で高取藩兵に捕われる。

9月26日(新暦11月7日)
前田繁馬、関為之進の2名は、慈恩寺(桜井市)にて藤堂藩兵に銃殺される。

9月27日(新暦11月8日)
鷲家口を脱出した中山忠光ら一行は、大坂の長州藩邸に入り、さらに長州に逃れる。
負傷し置き去りの吉村寅太郎は3日間鷲家谷の山小屋で過ごすが発見され藤堂藩兵に銃殺される。天誅組は壊滅した。

9月28日(新暦11月9日)
土居佐之助、安岡斧太郎らは多武峯鹿路村で捕われ、楠目清馬は多武峯倉橋村で自刃する。

9月29日(新暦11月10日)
秦将蔵は初瀬にて戦死する


文久4年(1864)
2月16日(新暦3月23日)
安積五郎ほか18名が京都にて処刑される。

元治元年(1864)
7月20日(新暦8月21日)
水郡善之祐ほか13名が京都にて処刑される。

10月2日(新暦10月31日)
河内脱退勢8人は和歌山から京都六角獄舎に送られる。

11月5日(新暦12月3日)
天誅組の主将、中山忠光が長州にて暗殺される。

元治2年(慶応に改元)(1865)
2月10日中山忠伊平野海願寺にて自刃した

2月16日伴林光平京都にて刑死



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