烏骨鶏を飼う
烏骨鶏を飼う
烏骨鶏は古くより、美容/健康維持食とし重要視され“幻の鶏”と賞賛されてきました。
中国では、四千年の歴史の中で烏骨鶏が大切な食材として飼育し続けられ現在に至っています。
肉・卵、共に、古くは王侯貴族や時の権力者のみの間だけで食され、美容と健康維持に珍重されていたようです。
今では日本でも烏骨鶏の需要が少しずつ伸び始めていますが、烏骨鶏は年間の産卵数が非常に少ない上、繁殖力も弱く大量飼育生産も難しい為、高価で貴重な烏骨鶏と言われています。
1942年に烏骨鶏が国の天然記念物に指定されました。
(ウィキペディア)

少し前は、軍鶏を飼うと公言して看板まで作って、「淡路島軍鶏農園」などと大きくでましたず、肉鶏なので肉を売ろうとすれば食品衛生の問題から、ビジネスにするには難しそうだということで烏骨鶏に舵をきりました。
軍鶏のときも、ネットで有精卵を買って自作の孵化器で孵して飼いだして、三十数羽まで増やしたけれど、自分で捌いて食いました。
売ることは出来ないので、あちこち配りましたがブロイラーに慣れてしまった人には、あまり嬉しがられなかったので、今はメスばかり6羽残っていますが、そのうちに烏骨鶏ばかりになるでしょう。

烏骨鶏もネットで、烏骨鶏専門店のMerry農場から買って、白と黒の卵6個ずつが、今では白が28羽、黒が8羽まで増えました。
オスとメスをひとつのゲージに6から8羽入れていますが、産む卵は全部有精卵です。
三十何羽いるけれど、成鶏(卵を産める)のは半分ぐらいですが、順次孵化器に入れて増やしています。
鶏というのは間なしに交尾します。この爺さんの前でコレみたげにやるのですわ。
ホンマニ・・・・・(^o^)


ネットショップで売ろうかと・・・・

羽毛の色は白と黒の2種類があると言われていますが、少し青みがかったのもいるみたいだから、純種ではないのかも知れません。
ニワトリは脚の指が前に3本、後ろに1本あるけれど、烏骨鶏は後ろ脚の指が2本あり、合計5本存在します。
これは鳥類としては珍しいんだって。中国では霊鳥として扱われ不老不死の食材として扱われた歴史があります。

飼い始めてネットで烏骨鶏の情報を集めていると、漢方鶏といつてもいいぐらい薬効があるみたい。
烏骨鶏の血を加工したものが高価で売られています。
卵も2百円から4百円、5百円もするのがあります。
スーパーで一個20円ぐらいなのに、烏骨鶏の卵はオークションなどでは高くても売れています。
アマゾンなどで烏骨鶏と検索すると、烏骨鶏卵だけでなく、烏骨鶏卵を使っていろいろと加工されたものから、酢卵などいっぱい出てます。

これはひょっとしたらビジネスになるかもなぁと、自前のネットショップをはじめました。
「ネットショップ はと店」
http://hato.s165.coreserver.jp/hatomise/hshop.html

漢方鶏といわれている烏骨鶏だから、更に飼育方法も独自のものを実践しているので、そのことも順次書いていきます。


漢方鶏「烏骨鶏」を飼うとは

卵を売るために飼い始めました。
ほんとうは軍鶏を飼って、その肉を売ってビジネスにしようという魂胆だったが、自分で飼育している鶏を食肉にしようとすると、屠殺など面倒な許可がいるらしいので断念。
そこで烏骨鶏になったのですから、やっぱり
「飼い方マニュアル」というのをネットで見ました。

まず、どんな小屋で飼うか?
むかし子供の頃は何処のうちでもニワトリを飼っていました。
残飯や米ぬか、敷地内で野菜を育てているので野菜くずやハコベなどの野草を与えて飼っていた。
卵は貴重で、1羽が毎日1個産むほどいい餌を与えていないから、今ほど産まないが2,3年飼ったら鍋の中(^o^)

鶏小屋にしても、手作りでそこら辺の板切れで作るので、イタチによく殺られたもんだ。
イタチが入り込んで血を吸われて全滅する。
軍鶏を飼い始めた頃、鹿児島から有精卵を買った方から教えてもらったのが、イタチを寄せ付けないために、犬の毛を網袋に入れて鳥小屋に吊るしておくとよいと聞いて実践していますが、襲われていないから、やっぱり経験者の教えは大事ですね。

鶏が病気になったらどうする?
卵から孵して飼っているので、自作の孵化器は機能的にはまずかったので負荷率も悪く、生まれてからヒナの育成箱の環境がよくなかったので、親鳥になるまでの成長率は3割ぐらいでした。
成鶏になると体調が悪くなってじっとしていることもあるけど、そのうち放って置くと治ります。
それでも治せず死んでしまうことも稀にはあるが、一応拝む真似して土葬する。

卵を産まなくなったらどうするか、これからの課題だ。
烏骨鶏は血も肉も漢方だといわれているから、スープになるのだろう。
軍鶏を数十羽捌いた経験から、それまでの工程はたぶん大丈夫でしょう。

食品衛生法上、一定の基準を満たす養鶏場で育てられた鶏しか食肉として販売することは許されていませんから、自分で捌いて食べることは何ら問題がない。

烏骨鶏は本当に「漢方鶏」だという話がある。
それもネットで読んだのだけれど

淡路新聞創始者「安倍喜平」

淡路新聞設立者で「淡路の福沢諭吉」と呼ばれた安倍喜平
安倍喜平は天保十二年(一八四一)湊浦の商人土井屋(浜西)栄蔵の長男として生まれた。幼名を岸之助、瑞穂と称し、別に禾葉と号した。
十五歳の頃に林滄浪に漢学を、菊川延年に国学を学んだと伝えられている。読書好学の岸之助は安政三年(一八五六)十六歳で洲本の安倍治郎作の養子となった。土井屋の長男でありながら、家督を妹きち(栄蔵養女)に譲り、安倍家を継ぐことになった事情はよくわからないが、学問をする上では好都合であった。洲本では漢学を中田南洋に、霞学を松野真維に学んだ。
元治元年(一八六四)に大阪の福田理軒から洋算や測量術を学んだ。しかし、彼は自ら学習し発明する独学の人で、ロビンソンの数学の原書を辞書をひきながら独習したという逸話は、彼の才能と努力を物語っている。こうして彼は国学、漢学、数学、物理、天文、地理、歴史までも勉強し、明治維新当時、淡路第一の博学という評判をとった。慶応二年(一八六六)二十六歳で家塾を開き「積小野」と称した。従来の古い漢学塾とちがい、西洋の数学、物理まで教える積小野姐新時代に適合し、評判が古同く島外からも入門者があった。積小野は大正三年まで続いたというが、明治三十年県立洲本中学校創立まで淡路における中学教育の役割を果たした。
松帆志知川生まれ(明治八年)の大住吾八(東京高等工業学校教授)も積小野に学んだ逸材であった。明治四十三年積小軒同窓会主催で喜平の古稀の賀が行なわれ、記念詩歌句集「富草集」が出版されたが、寄編者「三〇〇〇名を越えている。明治七年喜平は名東県から郵便線路の測量を委託され、また、地租改正のため各地で測量したが、「積小儀」という測量車を発明して用いた。明治十四年には『算法樽桶丈量表」を著したが、それは醸造家に便利なものであった。
明治初年洲本最初に洋服着た人という話のある喜平は、明治九年に淡路で初めて「演説会」を開いた。
それは社会教育や学術上の問題で月に数回開き、数年も継続したという。

淡路新聞創始者「安倍喜平」

淡路新聞設立者で「淡路の福沢諭吉」と呼ばれた安倍喜平
安倍喜平は天保十二年(一八四一)湊浦の商人土井屋(浜西)栄蔵の長男として生まれた。幼名を岸之助、瑞穂と称し、別に禾葉と号した。
十五歳の頃に林滄浪に漢学を、菊川延年に国学を学んだと伝えられている。読書好学の岸之助は安政三年(一八五六)十六歳で洲本の安倍治郎作の養子となった。土井屋の長男でありながら、家督を妹きち(栄蔵養女)に譲り、安倍家を継ぐことになった事情はよくわからないが、学問をする上では好都合であった。洲本では漢学を中田南洋に、霞学を松野真維に学んだ。
元治元年(一八六四)に大阪の福田理軒から洋算や測量術を学んだ。しかし、彼は自ら学習し発明する独学の人で、ロビンソンの数学の原書を辞書をひきながら独習したという逸話は、彼の才能と努力を物語っている。こうして彼は国学、漢学、数学、物理、天文、地理、歴史までも勉強し、明治維新当時、淡路第一の博学という評判をとった。慶応二年(一八六六)二十六歳で家塾を開き「積小野」と称した。従来の古い漢学塾とちがい、西洋の数学、物理まで教える積小野姐新時代に適合し、評判が古同く島外からも入門者があった。積小野は大正三年まで続いたというが、明治三十年県立洲本中学校創立まで淡路における中学教育の役割を果たした。
松帆志知川生まれ(明治八年)の大住吾八(東京高等工業学校教授)も積小野に学んだ逸材であった。明治四十三年積小軒同窓会主催で喜平の古稀の賀が行なわれ、記念詩歌句集「富草集」が出版されたが、寄編者「三〇〇〇名を越えている。明治七年喜平は名東県から郵便線路の測量を委託され、また、地租改正のため各地で測量したが、「積小儀」という測量車を発明して用いた。明治十四年には『算法樽桶丈量表」を著したが、それは醸造家に便利なものであった。
明治初年洲本最初に洋服着た人という話のある喜平は、明治九年に淡路で初めて「演説会」を開いた。
それは社会教育や学術上の問題で月に数回開き、数年も継続したという。

淡路新聞創始者「安倍喜平」

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安倍喜平は天保十二年(一八四一)湊浦の商人土井屋(浜西)栄蔵の長男として生まれた。幼名を岸之助、瑞穂と称し、別に禾葉と号した。
十五歳の頃に林滄浪に漢学を、菊川延年に国学を学んだと伝えられている。読書好学の岸之助は安政三年(一八五六)十六歳で洲本の安倍治郎作の養子となった。土井屋の長男でありながら、家督を妹きち(栄蔵養女)に譲り、安倍家を継ぐことになった事情はよくわからないが、学問をする上では好都合であった。洲本では漢学を中田南洋に、霞学を松野真維に学んだ。
元治元年(一八六四)に大阪の福田理軒から洋算や測量術を学んだ。しかし、彼は自ら学習し発明する独学の人で、ロビンソンの数学の原書を辞書をひきながら独習したという逸話は、彼の才能と努力を物語っている。こうして彼は国学、漢学、数学、物理、天文、地理、歴史までも勉強し、明治維新当時、淡路第一の博学という評判をとった。慶応二年(一八六六)二十六歳で家塾を開き「積小野」と称した。従来の古い漢学塾とちがい、西洋の数学、物理まで教える積小野姐新時代に適合し、評判が古同く島外からも入門者があった。積小野は大正三年まで続いたというが、明治三十年県立洲本中学校創立まで淡路における中学教育の役割を果たした。
松帆志知川生まれ(明治八年)の大住吾八(東京高等工業学校教授)も積小野に学んだ逸材であった。明治四十三年積小軒同窓会主催で喜平の古稀の賀が行なわれ、記念詩歌句集「富草集」が出版されたが、寄編者「三〇〇〇名を越えている。明治七年喜平は名東県から郵便線路の測量を委託され、また、地租改正のため各地で測量したが、「積小儀」という測量車を発明して用いた。明治十四年には『算法樽桶丈量表」を著したが、それは醸造家に便利なものであった。
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それは社会教育や学術上の問題で月に数回開き、数年も継続したという。



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