瓦のまち
瓦のまち
愛する“ふるさと淡路島”の地場産業である瓦のPR、観光のPRとしてこれから少しずつ書いていきます。
 
洲本の郷土史家・岡本稔さん(郷土史家で淡路考古学研究会顧問、洲本実業の教諭で恩師)の講演や書物から引用、「津井瓦誌」(津井地区まちづくり推進協議会編)等資料参考に、またインターネットで検索したものも取り込んで書いています。
田舎のおっさんの頭ではこんな知識はありません。
つなぎ合わせた話だから、学術的なものでないものも多くあることをお断りしておきます。

津井(南あわじ市津井)で瓦が作られるようになったはなし
寛永年間に当時貧困にあえいでいた津井を尼崎の法華の高僧が訪れ、地表に顕われた土質が瓦製造に適していることを見て、真言宗から法華に改宗することを条件に瓦の製造技術を伝授したという。
尼崎の本興寺あてに起請文を一札入れている。

  それが今も釜口の妙勝寺に残っている。  →

寛永の飢饉と法華改宗
室町時代から淡路法華の布教の拠点は尼崎の本興寺を本寺とする釜口の妙勝寺であった。その属坊本妙坊が由良に移って、本妙寺を称し、寛永二年に片田村、翌三年には津井村が一村まとまって法華宗に改宗することになった。

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津井村は御蔵米、年貢を納められず迷惑をかけています。ついては妙勝寺さまに借銀をお願いしたいと思います。法華に宗旨替えすればすぐに未納分の360匁の銀を借用できないでしょうか。改宗については末代まで徹底させますのでご安心下さい。もし心得違いを起こせば360匁に5割の利子をつけて毎年お納めすることお約束します。お伊勢さん、住吉、愛宕、多賀や他のお宮さんに参ることはしません。また高野山や先山、叶堂の観音さんなど真言の寺参り、勧進はいたしません。約束を違えるようなことがあれば日本中の神様の罰を受けて、現世にては重病、後世にては無間地獄に落ちることも覚悟しております。何卒宜しくお願い申し上げます。
寛永3年(1626)11月1日             津井村一同  

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銀360匁とはどれくらいの金額か。
銀50匁=金一両=米一石で米一石は現在の貨幣価値にして10万円くらいで、
金一両は4.5匁(18g)で、1g4000円で計算すると72000円、金一両の骨董的価値は約50万円だということらしいです。

寛永年間とはどういう時代だったのでしょうか。

1624年(元和10年・寛永元年)
徳川家光(征夷大将軍:映画でおなじみの水戸黄門)が京都・二条城の拡張、殿舎の整備に着手。
1625年(寛永2年)
熊本で地震。死者約50人
1626年(寛永3年)
二条城完成
1627年(寛永4年)
松代地震。死者多数。
1628年(寛永5年)
8月10日(旧7月11日):大地震があり、江戸城の石垣の多くが崩れた。

現在と同じように地震の活動期だったのか。
淡路瓦(いぶし瓦)の美
◆淡路瓦
兵庫県南あわじ市(旧西淡町)周辺を産地とする瓦で、愛知県三州、島根県石州とともにわが国の瓦の三大産地。
淡路瓦はいぶし瓦が得意で、全国の瓦生産の14%ほどのシェア、いぶし瓦に限った場合、30%以上のシェアとなっていた。
(平成初期の頃、私は瓦の業者でないので現在はどうなっているのかよくわからない)

   洲本市五色町のゆうゆうファイブ(温泉施設)の屋根→

◆燻し瓦(いぶしがわら)
銀色瓦、黒瓦とも呼ばれる、いぶし銀のような色とつやをした瓦。焼成の最後の段階で燻化し、瓦の表面に炭素の微粉をつきさすように付着させたもの。
以前はだるま窯を使い、200〜250℃で10時間、さらに550〜700℃で6時間、850〜1000℃で2時間、さらに同じ温度で2時間の「練らしだき」を行い、この段階で煙出し穴を閉じて、松薪、松葉などを入れて焚き口など全てを閉めて「込み」燻しを始める。
炭素と水分が化合して炭化水素となり、瓦の表面に付着する。
燃料は現在では重油からブタンガスなどに変わり、トンネル窯やガス単独窯に製造設備も変化して大量生産されている。
燻し瓦は1989年には全国で4億9200万枚ほどが生産されており、出荷金額は574億円ほどであった。

◆甍(いらか)
こいのぼり(日本の童謡・唱歌)
甍(いらか)の波と 雲の波
重なる波の 中空(なかぞら)を
橘(たちばな)かおる 朝風に
高く泳ぐや 鯉のぼり
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家の上棟や、屋根の棟瓦をさしているが、さらに瓦葺きの屋根そのものを甍の並、あるいは甍の波ともいう。

◆瓦(かわら)
瓦というと一般には屋根瓦をさしていると思われがちであるが、屋根瓦だけでなく床に敷く瓦や土塀をつくるための瓦もある。
粘土を焼いたもの、人間が化学変化を利用して製作した最初のものである。
瓦のはじまり
歴史資料橋「御原橋」(復元古代瓦説明より)
解説:岡本稔氏 (淡路考古学研究顧問)

瓦の発明については明らかでない。
その始まりは、板で葺いた屋根の上に、土管を二つ割りにしたものを仰向けに並べ、その間に同じ半割りにしたものを伏せて葺いたのが始まりで、その後、仰向けに置いたものが平瓦となり、伏せて置かれたものが丸瓦につくられ、さらに、軒先の丸瓦の端を半円形の粘土板でふさぎ、これに文様が飾られるようになり、これが円形となって現在見るような軒丸 瓦ができてきたと考えられる。
平瓦の端を飾る軒平瓦は、いつ頃できたかはっきりしないが、かなり後になる。世界で最も古い瓦が発見されているのは、中国陜西省西安の近郊で、時代は西周の終わり頃といわれるから、今から約二千八百年も前のもので、それは平瓦の形をしたものだけで、その次の東周の時代には丸瓦と平瓦が葺かれる。
丸瓦の端をふさいで文様をつけたところを瓦当というが、始めのものは半円形で半瓦当といい、秦から漢にうつりかわる頃、円瓦当になり現在まで続く。

瓦の普及
日本で始めて建物の屋根に瓦が葺かれたのは、崇峻天皇元年(588年)、朝鮮の百済から僧侶や寺院建築の技術者、そして瓦をつくる技術者が来て、蘇我馬子によって建てられた飛鳥寺(法興寺)であり、それは今から約千四百年前のことである。
推古天皇元年(593年)に聖徳太子が摂政となると、仏教を深く信仰し、仏教教義を研究された。
地方の豪族も寺院を建立したことは、各地で飛鳥、白鳳時代の古瓦が出土する寺院跡が発見ざれていることでもわかる。
瓦葺きの建物は寺院だけであったのが、藤原宮や平城官などでも瓦が葺かれるようになった。瓦当の文様は、飛鳥、白鳳、奈良、平安、鎌倉、室町、江戸と各時代によって変っていくので、瓦当の文様によって寺院跡や寺院の歴史がわかる。
瓦の形は古代からほとんど変らず、千四百年も前につくられた飛鳥寺の瓦が、奈良元興寺極楽坊の本堂の屋根にうつされていて、今でも葺かれているのが見られる。
江戸時代になっても始めの頃は、屋根を瓦葺きにした建築は、寺院、城郭などであった。庶民の家は、板葺き、草葺きの屋根であった。
民家が密集するようになると、度々大火がおこった。しかし、民家の屋根を瓦葺きにすることは経済的に困難なことであった。江戸時代の後半頃から瓦葺きが多くなってくるが、明治になってから広く普及した。
古瓦は文化財
古代の寺院では仏像をまつり、多数の経巻Qそなえ、僧侶が大勢生活して仏 法研讃に励む道場であり、学問所であって、庶民の葬儀、仏事とは関係なかった。
そればかりでなく中央の寺院には、大陸からの新文化が流入してくる文化のセ ンターでもあった。
地方の寺院においても同じで、中央の寺院から新しい文化の息吹が伝えられていた。しかし、寺院は木造建築物で長い年月の間に幸運の盛衰があり、又、火災などによって現在まで存続する寺は稀である。
古い寺院跡は土に埋まったり、田畑になっていることが多いが、そこには柱の礎石や、屋根に葺かれていた古瓦の破片が発見される。
寺院跡の発見は、瓦の採集から始まることとなる。
当時の寺院の年代は、瓦の文様や、つくりかた、焼きかたでわかる。淡路の各地でも古瓦の採集によって、寺院跡がかなり発見されている。
寺院のあった所はその当時、その地方は学問に励む僧侶がいて、中央からの文化を受け入れていた重要な地点であり、先進の地域であったことを証明するのである。
古瓦の破片は、田畑の耕作にはじゃまものであり、何の役にも立たないものとされているが、遺跡の発見、文化の伝わりなどを知るのに大きな役目を果たす文化財なのである。
瓦の文様のうつりかわり
屋根の軒先は丸瓦の瓦当と、平瓦の瓦当の文様で飾られる。
現在は軒丸瓦の瓦当には、ほとんど三ツ巴文、軒平瓦の瓦当は唐草文が飾られている。
朝鮮の百済から伝わった当時の軒丸瓦は蓮華文で、その花弁が単純に一弁づつ並び開く弁を素弁、その弁の上に小さい蕊らしい小葉が一つのっているものは単弁、弁の上に小葉が二つのっているものは複弁と呼ばれる。
蓮華文は飛鳥・白鳳時代から奈良・平安時代と続いたが、平安時代末期には蓮華文の形はくずれて、当初の蓮の花とは思えないような花文となってしまう。
軒平瓦は初期には見かけない。飛鳥時代の軒丸瓦の蓮華は素弁のものが多いが、単弁も見られる。
白鳳時代には複弁が現れ、蓮華文は豪華になり、軒平瓦も忍冬唐草文や葡萄唐草丈などで飾られて高い芸術美をもつ。
奈良時代の軒丸瓦は、単弁、複弁の蓮華文が盛んであるが、瓦の生産量が多くなり、蓮華文も駄作が多く、品質も落ちるが、中央の近畿地方では伝統の優美さを維持している。

平安時代は蓮華文の終末期で、本来の蓮の花が忘れられ、単なる花弁となってしまう。
平安時代末期には巴文が現れ、鎌倉時代は巴文が主流をなしてくる。
巴の頭は最初とがっていて、尾も細く非常に長く、痩せた巴であるから俗に餓鬼巴と呼ばれる。
その後、巴の頭は丸く大きくなり尾も太く短くなって、おたまじやくし巴といわれる。
軒丸瓦や軒平瓦に梵字が出てくる。
この鎌倉時代から、二本の角をだし鬼の顔も立体的につくられた、いわゆる鬼瓦が出現してくる。
室町・桃山時代には、軒丸瓦の文様はやはり巴文が多く、巴の尾はかなり長いものがあるが、頭は丸みが出てくる。
巴文とともに、武家の家紋が便われる。軒平瓦の唐草は力強さがなくなり簡単になってくる。
鬼瓦の鬼面は肉が高く彫られるようになる。江戸時代は、城や大名屋敷には続いて家紋をつけた軒丸瓦や軒平瓦がみられるが、家紋もしだいに使われなくなり、ほとんど巴文となる。
唐草の文様もさらに形式化し簡単になる。現代はこの傾向を続けるが、軒丸瓦や軒平瓦に文様のないものが現れている。
淡路瓦の生産
瓦が生産されたことは、瓦を焼いた窯跡を確認することによってわか る。淡路で瓦が焼かれた最初の窯跡は、洲本市大野庄慶の丘陵山腹に築かれた窯で、瓦と須恵器という釉薬をかけない硬質の焼き物が焼かれていた。
素弁の蓮華文や三重弧文の軒平瓦の文様や、瓦のつくりかたなどで見ると、飛鳥から白鳳時代のものと思われるから、今から約千三百数十年前のものである 。
この窯に続いて古い窯は洲本市大野土生寺の窯で、同様に瓦と須恵器が焼かれていた。
瓦は扁行忍冬唐草文で奈良時代前期、約千三百年前のものである。
このあとの窯は千二百数十年前の奈良時代後期三原町八木佐保谷の窯で、国分寺の瓦を焼いたと思われ、蓮華文の軒丸瓦や平瓦が発見されている。
次は約九百年前の平安時代後期になり、洲本市大野宮林の窯、三原町志知の佐礼尾窯で、瓦が焼かれていた。

鎌倉時代のものでは、三原町八木馬廻の成和寺の本堂の右側の窯跡が、約六百数十年前と思われる瓦が焼かれていた。
室町時代の瓦窯跡は、はっきりしない 。
桃山時代(織田信長、豊臣秀吉の活躍の時代)では、慶長15年(1610年)淡路は姫路の池田輝政の領国となり、輝政は岩屋城を新築した。
慶長18年 (1613年)には輝政の三男池田忠雄が領主となり、洲本市由良で成山城を蹟しく築いた。
このとき忠雄は、明石から清水理兵衛という瓦職人を招いた。
理兵衛は洲本市の古茂江で城の瓦を焼いた。
その後、古茂江にいた瓦職人は、津井、阿万、尾崎などで瓦を焼くようになったが、藩の統制で瓦職人は31戸に限られており、淡路で瓦の製造が自由になるのは明治以後である。津井で瓦の生産が始まるのは今から二百数十年前で、清水理兵衛が古茂江に来てから十年あまり後の江戸時代の寛永年間(1624〜1643)からといわれ、池田氏は備前に帰り、淡路は阿波の蜂須賀氏が領主になっていた。

日本の気候風土・日本建築の伝統美は瓦屋根の風景
1995年(平成7年)1月17日に発生した大規模地震災害、阪神・淡路大震災による、木造住宅の倒壊が瓦屋根の重さが原因であるかのように報道されたが、建築基準法改正以前の老巧化した建物などが 多かったことなど、様々な要因によって引き起こされたことが建築専門家により発表されたが、瓦を使っているからというマスコミなどの誤解により、伝統ある製瓦業が窮地におちいったままである。

日本人が古くから伝えてきた「和食 日本人の伝統的な食文化」が、ユネスコの無形文化遺産に登録されました。
瓦屋根のある風景、これも日本の誇れる伝統文化でもある。その一翼を担っている「瓦」をもう一度見直してみませんか。



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