古東領左衛門伝
尊攘討幕運動に突進した熱血の庄屋「古東領左衛門伝」
 日本の夜明け、明治維新にまつわる話は多い。
 小説などに取り上げられるのは戦国時代の混乱期や明治維新の頃が多く、これらの時代に登場する人物の行動は誰しもひじょうに興味がある。
 平和な時代には文化が発達し、激動の時代には「人物」を、とくに豪快な人を作るのではないかと思う。
 文化・文政年間(1804 〜1829)は、伊能忠敬が日本中を歩き回って日本地図を作るなどから推測すると平和な時期であったと思われる。平和な時代には文化や学問が盛んになり、 その時代の独特の文化が生れるのではないかと思う。
 古東領左衛門の生れた津井というところは、日本列島を淡路島に喩えるならば山陰地方の山口県の萩市あたりではないかと思う。
 文政二年(1819)四月十六日淡路島・津井(村)に生まれた領左衛門は歴史学者や出身地である津井という土地の一部の人にしか知られていない。古東領 左衛門より十一年後に生まれ、幕末の維新を先駆した人として有名な吉田松陰は文政十三年(1830、天保元年)毛利藩の城下町萩に生まれた。
 古東領左衛門と吉田松陰が面識あったかどうかなどを考えながら 歴史本を読むと面白いのですが、学生時代ならともかく古希になってしまったのでちょいかじりのことを書いておきます。
 吉田松陰や古東領左衛門のような革命的思想の伝記は、終戦の年に生れたからか社会の勉強の中には詳しくは教えてくれなかった。私の育ってきた太平洋戦争後の教育では、忠臣蔵とか倒幕などの伝記伝説は、戦勝国であるアメリカの進駐軍に配慮して教育現場では歴史教育から外されていたのだろう。

 『古東領左衛門 精忠碑』は昭和十五年十月二十日皇紀二千六百年の除幕式が行なわれ、永田秀次郎(淡路島出身、初代東京市長)の領左衛門の功績を顕彰する文が刻まれてい る。

※津井瓦誌を平成24年に発行した。
 そのとき津井地区まちつくり推進協議会会長登里康生氏が精力的に資料を集め、津井が
 瓦製造に関わった経緯、故郷の人物などを調べて下さいました。
 歴史は語り継ぐものだと思うので、このような形で書いております。


古東領左衛門の生きた時代的背景
日本の歴史の中で三大飢饉というのは、
享保の飢饉(享保十七年 1732)、天明の飢饉(1781〜1788)と、天保の飢饉(天保四年 1833)である。

幕末期、日本が鎖国政策をとっている間、欧米諸国は近代国家への歩みを進めていきました。
イギリスにおける18世紀から19世紀前半にかけての産業革命が、他のヨーロッパ諸国やアメリカにも及び、列強各国は植民地の獲得競争に乗り出し、その矛先はアジアにも向けられました。
18世紀末から19世紀はじめにかけて、ロシア船やイギリス船が、日本近海に来航し、鎖国の扉を叩こうとしましたが、幕府は頑なに鎖国政策を堅持します。
しかし、清国がアヘン戦争でイギリスに敗れたことを聞くと、異国船打払を緩和し、薪水給与令を出し、漂着した外国船には薪水・食料を与えることとしました。

※薪水給与令(しんすいきゅうよれい)とは
江戸幕府が打ち出した外国船に対して飲料水・燃料の給与を認める法令。

鎖国を守る姿勢は変わらず、オランダ国王が親書をもって開国を奨めますが、幕府はこれを拒絶して、鎖国体制を守り抜こうとしました。
弘化3年(1846)、アメリカ東インド艦隊司令長官ビッドルが浦賀に来航し開国を幕府に交渉した際にも幕府はこれを拒絶し、ビッドルは目的を果たさないで帰国しました。

嘉永6年(1853)6月、ペリーは軍艦4隻を率いて大西洋を横断、喜望峰をまわり、インド、中国、琉球を経て浦賀に来航、開国を要求する大統領の国書を幕府に受け取らせます。
嘉永7年(1854)1月、ペリーは軍艦9隻を率い、江戸湾へ入港、ついに日米和親条約が締結されることとなる。

※アメリカは日本に開国を迫ってきたのは、は太平洋で捕鯨するにあたり、食料と燃料の補給ができる場所が欲しかったという説もある。

条約の内容は
(1)アメリカ船に燃料や食料等、欠乏品を供給すること
(2)下田、箱館の2港を開き、下田への領事の駐在を認めること
(3)アメリカに一方的な最恵国待遇を与えること。
等、計12条でした。
つづいて、イギリス(嘉永7年8月)、ロシア(安政元年12月)、オランダ(安政2年12月)とも条約を結ぶこととなり、200年以上続いた鎖国政策は崩れ去ることになる。

文化・文政年間は平和な時代であったようだが、天保の飢饉によってあちこちに一揆などが起こった。
大塩平八郎の乱は特に有名である。
天保の改革の失敗や、ペリーの黒船来航など世情は揺れ動いている時代であり、幕府は朝廷の命に反し、外国と通商条約(日米修好通商条約調印 安政五年 1858)を結ぶ。その結果、尊皇攘夷論が各地で起こり佐幕派との対立がはげしくなる。


今は亡き俳優勝新太郎の全盛期に、幕末の頃を取り上げた映画で『人斬り以蔵』というのがありました。
その主人公岡田以蔵が『天誅』と言って斬りつける、いわゆる政治テロ。
勝新の演技には迫力がありました。
(岡田以蔵、文治元年、1864、処刑27才)
「天誅組」というのは、周囲から天誅組、天誅組と呼ばれているうちに通称となったのであり、そういう名前の組織が最初からあった訳ではない。
天誅という言葉は政治的テロを指す当時流行の言葉であった。

討幕の志が団結して組織にまで発展して、テロ行動を起したのは文久三年八月十三日に決定された攘夷祈願のための孝明天皇大和行幸であった。
加茂神社、石清水神社と続いた天皇の攘夷祈願の行幸の規模を大きくしたもので、天皇が大和橿原の神武陵前で祈願される際、攘夷親征の軍議が行なわれ、伊勢神宮に鳳輩を進められるというのが目的であった。

※鳳輦(ほうれん)
「屋根に鳳凰の飾りのある天子の車」で、天皇の正式な乗り物。

供奉するものは京都駐留の各藩の将兵で、長州、加賀、土佐、肥後、久留米などの大藩には、それぞれ十万両の用途金調達が命ぜられた。
これは行幸という名目で、その実軍事親征を目的とするクーデターであった。
この計画の立案者は、久留米の神官真木和泉だといわれている。
真木和泉の主張の基本は、外患に対処するには幕府を倒し、天下を一新しなければならぬという攘夷倒幕の主張である。
そのためには暦本貨幣の制度を改め、土地人民の支配権を朝廷に収 めると同時に、減税によって人民の生活を安定させること。
また皇居を大阪に移して沿岸を防備し、砲台や軍艦などを造って国防をかためること。
すなわち天皇 親征の軍事力で夷を払うという王政復古の主張であった。文久三年八月十三日大和行幸の勅書が発せられた。

 「為今度攘夷御祈願
         大和行幸
  神武山陵 春日寺 御拝
  暫御逗留 御親征軍議被
  為在 其上
  神官行幸の事」

好機到来とばかり天誅組主将中山忠光は次のような回状を同志に送り、集合を求めたのである。

今般攘夷御祈願のため大和行幸を仰せ出給ひぬ。これによって忠節を心掛け候我輩一同、御先鋒として大和へ罷り下り、鸞輿を迎へ奉らんため、今日発 向の段、治定候につき、有志の徒は正八ッ時(午後二時)限り、方広寺道場へ遅滞なく参着致さるべきもの也 
   文久三年八月四日
   前侍従 中山忠光(花押)

集参した者は
元侍従中山忠光のほか吉村虎太郎、同家来木村楠馬、槍持中倉才治郎
土佐藩:那須信吾、安岡嘉助、上田宗児、池内藏太、島浪間、田所謄太郎、伊吹周吉、土居佐之助、森下儀之助、鍋島米之助、前田繁馬、森下幾馬、島崎省吾、沢村幸吉、楠目清馬、安岡斧太郎、
久留米藩:鶴田陶司、酒井伝次郎、半田門吉、中垣健太郎、新巻半三郎、江頭種八、小川佐吉、同家来山口直義
三河刈谷藩:磯崎寛、石川一、
島原藩:尾崎清五郎、保母健 河内の有志 長野一郎、田中楠之助 水戸の渋谷伊予作 筑前の吉田重藏 肥後の竹下能雄

 三十九名

明治の維新革命に淡路という小さな島の一庄屋が、産を傾け、情熱のありったけを尽して革命運動に投じました。
日本の滅亡を救わんとして、かえって自らの身を滅した悲運の人といわれるかもしれない。
尊王攘夷思想の信奉者の域をこえ、実践派の一人として情熱を傾け理想はすべて裏切られ、国賊として捕へられたが、勤王の志士として仰がれるようになったのは死後七年の年月を閲してからのことである。

古東領左衛門のおいたち
古東領左衛門は文政2年(1819)生まれ。
幼名震太郎、諱(いみな)は需(もとむ)、字は高麻呂、号は衝山または琴屋(きんおく)(「古東家」の意味)。
古東家は代々三原郡津井村の庄屋を務める家柄で、身居(みずわり=身分)は「支配外無役人」。
領左衛門は古東家第11代の当主として田畑40余町歩、山林70町歩の資産をもつ豪農だった。

こういう書き方の意味が良く判らないのが・・・・・
淡路の片隅の津井というところに住んでいたというのも不思議だが、専門家に任せるとして・・・・・
            平成の初期まであった古東屋敷の門→
庄屋時代の領左衛門は、すぐれた治世家でもあった。
天保の大飢饉のときは、父とともに蔵を開いて飢民の救済にあたり、のち23歳で庄屋職を継いでからも、しばしば自家の蔵を開いた。
元来西海岸には良港というべきもの殆どなく、船舶の遭難するところがなかった。
領左衙門は民治の職責上事ある毎に事情を上司に報告、義心から私財を投じて様々な事業を行っている。
津井港を開鑿(1855〜1857)、阿万美女池の開鑿(1859〜1861)、防波堤の建設、岩屋港の改修など社会開発にも力を注いでだ。
津井港の大工事は安政二年に創め、竣工迄には満二ケ年の歳月を要した。
この工事は失業救済の対策としても偉大なる政治的功績と見える。
港湾の改修が終わると延長五町に亘る三ケ所の防波堤を構築した。
これらに依つて地方民の享けた恩恵は計り知れないものである。
また、飢扶持米拝領願を文久元年(1861)6月9日に郡役所に出している。
この頃から彼は政治運動にのめりこんでいく。

※益習館(稲田氏が淡路島の洲本に作った私塾)
徳島藩下にあった洲本には蜂須賀氏の「洲本学問所」である「文武学校」があった。

稲田敏植は蜂須賀家家老稲田植樹の子として生まれ、家督相続し、洲本城代となる。
継室に中納言高辻福長の娘を迎え、朝廷との関係が深まったことから稲田家が勤皇の道を歩む。
益習館では、儒学者の篠崎三島、篠崎小竹親子が講義を行い、幕末に勤皇の志士を輩出する。
桂小五郎(木戸考允)・西郷吉之助(隆盛)・頼山陽・画家斉藤畸庵・山縣狂助(有朋)なども
この“益習館”を訪れたことがある。

古東領左衛門と勤皇の志士の接点は益習館だったのではと考えるのが一般的だろう。
領左衛門は、淡路勤皇党首領として有事にそなえて内原(津井の山奥)に兵舎を建て農兵を訓練するなど、私財と生活のすべてを尊王攘夷運動に注ぎ込んだ。

万延年間より時局に目醒め、阿波から剣客梶浦四万助を招いて、村内の青年たちに武術を学ばせた。
また自宅が海岸に面しているので、外夷との戦に具えて、小丘上に新邸を造ったといわれる。
岩屋、津井の港は、明石、鳴門の海峡に面し、大阪湾防護の要地に考えられていた。
古東の養成したのは、海辺防護隊であるが、松本奎堂はそれを後に倒幕の私軍に使用しようと考えていた。

面白くなってきましたねえ。

つづく

領左衛門の生きた時代(幕末)
世の中はどんな時代だったのかを見ながら古東領左衛門を見ていきたいので・・・・

  天誅組を書いているページから拝借(どこだったか忘れた)→

1730 享保 15  庚戌
本居宣長生まれる。
江戸時代の国学者・文献学者・医師。

1731 享保 16  辛亥
1732 享保 17  壬子
享保の飢饉

1733 享保 18  癸丑
1734 享保 19  甲寅
1735 享保 20  乙卯
1736 元文  1  丙辰
1737 元文  2  丁巳
1738 元文  3  戊午
1739 元文  4  己未
1740 元文  5  庚申
1741 寛保  1  辛酉
1742 寛保  2  壬戌
1743 寛保  3  癸亥
1744 延享  1  甲子
1745 延享  2  乙丑
1746 延享  3  丙寅
1747 延享  4  丁卯
1748 寛延  1  戊辰
1749 寛延  2  己巳
1750 寛延  3  庚午
1751 宝暦  1  辛未
1752 宝暦  2  壬申
1753 宝暦  3  癸酉
1754 宝暦  4  甲戌
1755 宝暦  5  乙亥
1756 宝暦  6  丙子
1757 宝暦  7  丁丑
1758 宝暦  8  鰭寅
1759 宝暦  9  己卯
1760 宝暦 10  庚辰
1761 宝暦 11  辛巳
1762 宝暦 12  壬午
1763 宝暦 13  癸未
1764 明和  1  甲申
1765 明和  2  乙酉
1766 明和  3  丙戌
1767 明和  4  丁亥
1768 明和  5  戊子
1769 明和  6  己丑
高田屋嘉兵衛(津名郡五色町都志)の貧しい農家に生れる

1770 明和  7  庚寅
1771 明和  8  辛卯
1772 安永  1  壬辰
1773 安永  2  癸巳
1774 安永  3  甲午
1775 安永  4  乙未
1776 安永  5  丙申
1777 安永  6  丁酉
1778 安永  7  戊戌
1779 安永  8  己亥
1780 安永  9  庚子
1781 天明  1  辛丑
天明の飢饉 天明8年まで続く

頼山陽生まれる。
江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人。
主著に『日本外史』があり、これは幕末の尊皇攘夷運動に影響を与え、日本史上のベストセラーとなった。

1782 天明  2  壬寅
1783 天明  3  癸卯
1784 天明  4  甲辰
1785 天明  5  乙巳
1786 天明  6  丙午
1787 天明  7  丁未
1788 天明  8  戊申
1789 寛政  1  己酉
1790 寛政  2  庚戌
1791 寛政  3  辛亥
1792 寛政  4  壬子
1793 寛政  5  癸丑
1794 寛政  6  甲寅
1795 寛政  7  乙卯
1796 寛政  8  丙辰?
1797 寛政  9  丁巳
1798 寛政 10  戊午
1799 寛政 11  己未
1800 寛政 12  庚申
1801 享和  1  辛酉
1802 享和  2  壬戌
1803 享和  3  癸亥
1804 文化  1  甲子
1805 文化  2  乙丑
1806 文化  3  丙寅
岡田鴨里生まれる。
江戸後期-明治時代の儒者。
文政8年京都にでて頼山陽にまなぶ。
師の遺志をつぎ「日本外史補」をあらわした。
阿波徳島藩につかえ,洲本学問所[益習館]教授となる。

1807 文化  4  丁卯
1808 文化  5  戊辰
1809 文化  6  己巳
1810 文化  7  庚午
1811 文化  8  辛未
1812 文化  9  壬申
1813 文化 10  癸酉
1814 文化 11  甲戌
1815 文化 12  乙亥
1816 文化 13  丙子
1817 文化 14  丁丑
1818 文政  1  戊寅
1819 文政  2  己卯
古東領左衛門生まれる(淡路国三原郡西淡町津井村)

1820 文政  3  庚辰
清水次郎長 (山本長五郎)清水市美濃輪に生まれる。

1821 文政  4  辛巳
1822 文政  5  壬午
1823 文政  6  癸未
1824 文政  7  甲申
1825 文政  8  乙酉
1826 文政  9  丙戌
1827 文政 10  丁亥
1828 文政 11  戊子
1829 文政 12  己丑
天誅組で活躍した福浦元吉、 福良浦に生れる。

1830 天保  1  庚寅
1831 天保  2  辛卯
1832 天保  3  壬辰
1833 天保  4  癸巳
1834 天保  5  甲午
1835 天保  6  乙未
1836 天保  7  丙申
1837 天保  8  丁酉
1838 天保  9  戊戌
1839 天保 10  己亥
1840 天保 11  庚子
1841 天保 12  辛丑
1842 天保 13  壬寅
1843 天保 14  癸卯
1844 弘化  1  甲辰
1845 弘化  2  乙巳
1846 弘化  3  丙午
アメリカ東インド艦隊司令長官ビッドルが浦賀に来航し開国を幕府に交渉した際にも幕府はこれを拒絶し、ビッドルは目的を果たさないで帰国

1847 弘化  4  丁未
1848 嘉永  1  戊申
1849 嘉永  2  己酉
1850 嘉永  3  庚戌
1851 嘉永  4  辛亥
1852 嘉永  5  壬子
1853 嘉永  6  癸丑
アメリカ東インド艦隊司令長官ペルーが黒船四隻を率いて浦賀に入港し、開国を迫る

1854 安政  1  甲寅
ペリーは軍艦9隻を率い、江戸湾へ入港、ついに日米和親条約が締結。

1855 安政  2  乙卯
古東領左衛門、淡路津井港の改修に着手

1856 安政  3  丙辰
1857 安政  4  丁巳
1858 安政  5  戊午
安政の大獄
幕府による日米修好通商条約の調印に対して,孝明天皇は水戸藩に対して密勅を下し、幕府に対抗する姿勢を示した。
そこで大老井伊は、幕府の施策を批判した梅田雲浜(小浜藩士・攘夷派)や橋本左内(越前藩士・適塾出身の蘭学者で開国派)らを逮捕し、徳川斉昭・島津斉彬・松平慶永ら一橋派の有力大名や攘夷派の公家たちを処罰するなど、徹底した弾圧をおこなうことによって政治権力の分裂を防ごうとした。
安政の大獄(1858〜1860年)

1859 安政  6  己未
1860 万延  1  庚申
1861 文久  1  辛酉
藤本鉄石(四十五歳)、古東領左衛門(四十四歳)、尊王討幕の同志として血盟

1862 文久  2  壬戌
1863 文久  3  癸亥
尊王攘夷派の挙兵
天誅組の変…大和(奈良県)の五条
侍従中山忠光を擁して、孝明天皇の大和行幸のさきがけをなそうとして挙兵、大和五條の代官を殺害し、十津川郷士を併合して大和高取城を攻撃した。

下関戦争(萩藩がアメリカの商船を下関海峡で砲撃した)

生野の変……但馬(兵庫県)の生野
平野国臣(福岡)・沢宣嘉(公家)

1864 元治  1  甲子
天狗党の乱…筑波山(茨城県)で挙兵→京都へ向けて進軍
藤田小四郎ら尊王攘夷派が政争に敗れて挙兵

禁門の変……長州藩を中心とする尊王攘夷派が京都に侵攻
池田屋事件がきっかけ→薩摩・会津藩兵に敗北

禁門の変による市中騒擾のさなか、古東領左衛門は堀川六角の獄舎で無法にも斬首された。時に46歳であった。
辞世の歌は
「君のため思いし事も水の上の泡と消えゆく淡路島人」
「君のため八重の潮路を登り来て今日九重の土になるとは」

岡田以蔵、処刑27才

禁門の変で、稲田藩は「稲田藩」という旗を立てて会津、桑名、薩摩諸藩とともに長州と戦って功績があった。
また、当時、藩庁から依頼をうけ、淡路から農民で組織された郷鉄砲隊が京都御所の守備に当たっていた。
彼らは、猪の駆除のため猟銃の所持が認められていたからだが、村ごとの人数割当での召集に村役は人選に苦慮したようだ。(三原郡史)

1865 慶応  1  乙丑
江戸幕府の滅亡
天誅組の変の最中、八月十八日の政変により幕府と朝廷との和解は実現したが,朝廷のもとで雄藩が国政運営を協議するという新しい政治のあり方は失敗におわった。
これ以降の政治史の一つの軸は,朝廷での主導権を握った幕府と雄藩連合による新しい政府をつくろうとする薩摩藩などとの主導権争いだ。もう一つの軸が,民衆のなかの世直しを求める動きだ。

1866 慶応  2  丙寅
1867 慶応  3  丁卯
1868 明治  1  戊辰

学者でもない、パクリで歴史話を集めて書いているので、どんな時代、どういう時代の流れなのだろうと集めてみた。
書いていて結構面白いなあと思っています。

終いには怒られるかも知れないが、まあ淡路島ってそんなところだったのか。
そう思った人が観光客として来てくれるかもしれませんゾッ!(^_^)
天誅組
国の行く末を憂い、志に殉じ、そして明治維新の魁となった天誅組の変から今年で150年となります。
天誅組の行動は、結果から見れば無謀なことだったかもしれませんが、彼らの軍令に『一心公平無私、土地を得ては天朝に帰し、功あらば神徳に属し、功を私することあるべからず』とあります。
私欲を捨て、来るべき新しい時代のために命をささげた彼らの思いに触れるとき、今の社会を変える道筋が見えてくる気がします。
人が何かを望む時、大切なのは誰かに何かをしてもらうのではなく、自分で何ができるかではないでしょうか。

    藤本鉄石(津之助)・福浦元吉主従の最期(紀州藩の記録) →
「・・・彌右衛門家来高田熊助、鉄砲打掛け候へ共、一揆主従両人稲妻の如く
駆廻り、打留兼候内、両人とも旅宿へ駆込み、津之助は旅宿に所持の長押に
掛けたる槍を手早く取り、主従必死に相働き、彌右衛門見掛け討てかかるべきを、一同一時に突立て、下人は真向にかざし、聲を掛け、すでに二階に上らんとする時
奥村立蔵、上より槍を突掛け、下よりも支へ候筋もこれあり、段梯子上りかね、両人叉復奥庭へ駆廻る。
下人の真向うを、梶川三十郎、槍にて一突きに当て、主人津之助は以前の槍にて林楠之丞見掛け突掛り候処、楠之丞浅手負い候まま槍を引きたくる。
二階の屋根より寺社方陸尺利右衛門、瓦を投げ掛かる。
津之助座敷へ飛上り、なお駈廻る処を川上七郎家来花光伊右衛門、駆来りて槍を合わす。
続いて甚蔵左へ廻り、刀を以て左の腮より肩へ七、八寸斬下げ、津之助溜り得ず、そのまま座敷へ斃る。・・」
鉄石・元吉の死闘のようすが目に見えるようである。


天誅組の変
文久3年(1863)8月13日(新暦9月26日)攘夷祈願のため孝明天皇の大和行幸の詔が発せられた。
翌14日、皇軍御先鋒と称して前侍従中山忠光卿以下39名が京都方広寺に結集。
舟で淀川を下り大坂を経て堺に上陸した。
水郡邸で河内勢が合流。観心寺に参詣し、後村上天皇陵及び楠木正成の首塚で戦勝祈願して、千早峠を越え、17日、五條代官所を襲撃。
桜井寺を本陣とした。
18日、京都で薩摩・会津などの公武合体派による政変が起こり、大和行幸が中止。情勢が一変して天誅組は大義名分を失った。
天誅組は、十津川に挙兵を求め、幕府追討軍と戦ったが、次第に追い詰められ、十津川を南下。
大峰山系を東に転じて笠捨山を越えて北山に入り、東熊野街道を北上。
川上の武木村で最後の昼食をとり、足ノ郷峠を越えて9月24日(新暦11月5日)七つ半頃(午後5時頃)、鷲家口(現東吉野村大字小川)まで1里ほどの五本桜にたどりついた。
軍議を開き、彦根勢が待ち構える鷲家口を突破するため決死隊を編成。
鷲家口に突入し壮烈な戦いが繰り広げられた。
この日から28日にかけて、那須信吾を隊長とする6名の決死隊をはじめ、藤本鉄石、松本奎堂、吉村寅太郎の三総裁など17名の若き天誅組志士たちが戦死または捕らえられた。
五條代官所を襲撃して挙兵した天誅組は、40日余りの戦闘の後、東吉野村において事実上壊滅した。
鷲家口を突破した志士たちも、桜井、天理、生駒で追討軍によって捕らわれたり戦死し、大坂の長州藩邸に逃れ得たのは、わずかに主将中山忠光卿主従7名であった。
また、明治維新まで生きのびたのは二、三名に過ぎなかった

インターネット上には天誅組に関するホームページ、ブログが多い。
天誅組に加わった志士たちの志を称え、誇りを持って社会を変えて行こうとした天誅組に加わった志士たちの志を称えたい。



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