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遠くへ行きたい
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知らない町を 歩いてみたい
どこか遠くへ 行きたい
知らない海を 眺めていたい
どこか遠くへ行きたい
(ジェリー藤尾の遠くへ行きたい)
人が未来へ歩んでいくためには、前を向き
自分の正面を照らす光を目指し進まなくてはならない。
人生という名の「旅」はこれからも続く
※駄文をならべていますが、コメント歓迎です。(^_^)
旅ゆけばぁ‥‥‥‥‥‥‥‥
高校卒業して高槻にある大日本セロファンに入り二年で退社、大日本セロファンというでっかい会社で本社から芥川工場の端から端までは3,4百メートルぐらいあったかも知れない。
大日本セロファンはセロファン製造が主だったけれど、製紙工場なのです。
セロファンは製紙のパルプを原料にして抄造してセロファンを作ります。
セロファン業界の最大手で防湿セロファンが主力。
タバコのセロファン包装やキャラメルなどの箱のカットセロファン(赤い細いやつ)が防湿のセロファンを切り取るのが特徴。
私はセロファンにポリエチレンの被膜をする加工部門にいました。
ドイツから輸入したポリの網袋などを制作する機械とかポリプロピレンのカップとかの包装資材が社会を変えていく時代でした。
インストラーメンが出てきて、日本人の食生活が変わり始めて戦後の高度成長時代を経て、ポリエチレンやポリプロピレンと競合するようになり、たった二年間しかいなかったのに、先輩に誘われて希望退職に応募して辞めました。
たぶんそんな二年しかいないのに辞めたのは私ぐらいでしょうねぇ。
それから数年後に上場廃止、会社更生法から現在は日本マタイ株式会社に吸収され、現在はレンゴーというばかデカイ企業グループで生き残っています。
昭和39年3月に同期入社したのは67人(?)いたと思うが、日本マタイに残った者もいたはずだが交流はありません。
希望退職で退職金をたんまり貰って四、五ヶ月ぐらい遊び人(^o^)
新聞の求人広告で静岡にある篠原鉄工所に入社。工作機械メーカーであったが、造幣局から外国製の印刷機の払下げを受け、印刷部門へ転換の時期でもあり、本社静岡で研修させられました。
先では大阪を中心に西日本全般を受け持つサービスエンジニアに育てようというものでした。
三ヶ月ほどして出張の見習いのようで本社工場の検査係について、機械の搬入・試運転の3泊の出張でした。
行くのはバスだったかで途中には白糸の滝などもあったけれど、通り過ぎただけ(^o^)
バスの中から朝霧高原を通りながら、大阪へ帰ったらこれから楽しくなるだろうなと期待したけれど、まだ帰られるはずもなく研修は続きました。
試運転でいったのは富士吉田市の河口湖にある印刷会社でした。
その頃美川憲一の柳ケ瀬ブルースが流行っていたのを思い出します。
日本一の富士山ですが、河口湖から見る富士山は最高に綺麗と地元の人が自慢していたのも思い出します。
まぁ、「遠くへ行きたい」(日曜日の読売テレビ)でやっているけれど、私はなんと良い仕事をしながら旅を楽しんだのだろう。
ランクル
2025.7.27-14:53
修正
人それぞれにいろいろな人生がある
八十年も経つと、オイ! オマエ! 言うてた奴らがおらんようになっている。
誰にも人生計画があったはずなのに人生とは儘にならないもので、今でも働き続けている奴や、悠々自適の生活を過ごしている者もいます。
敗戦の年に生まれたというのは、いろいろな経験ができたのである意味面白い人生であったのかも知れません。
思い起こせば、子供のころ(小学校入学前)は着ている服は継ぎ接ぎだらけだったり、食べるものも十分でなかった。
おもちゃなどは滅多に買ってもらうこともなく、親父が兵隊から持ち帰った鉄カブトに水を入れて遊んだ記憶などもあって、アンネの日記の映画の一場面を見るようなところもありました。
大きな家の子も小家の子も皆同じようなもので、いろんなものを欲しがっても買って貰えない時代でした。
戦争ということから、親らの豊かな大正時代から比べると大地主とか大金持ちの家の子でもいい時代とは言えなかった。
貧乏人の子に生まれたから、学校出たら自分の口過ぎをしなさいというような境遇の人が大半でした。
中学卒業したら貧しい中でも学問をさせてやろうという気持ちはあってもなかなか経済的には難しい時代でした。
そんな中でも幸いにも洲本実業の機械科に進んで多くの友人とも出会えたし、それなり人生を送ってこれたのでしょう。
毎年思い出したように8月になると第二次大戦の戦争の悲劇が語られる。
勝つ、負けるという勝負の世界を見るとスポーツにしても賭け事にしても「勝ち」にこだわってしまいます。
私は高校時代から麻雀が好きで、放課後や中間や期末試験の短縮授業のときは友達の家で点一(千点10円)の賭けマージンをしていました。
社会人になっても先輩に誘われて、3交代の日勤や前夜勤などでは徹夜でやっていました。
若いから寝ずに3日3晩でもやれたんですなぁ。
そしてパチンコも好きで、休みの日は朝の10時から夜の10時(蛍の光の曲が流れる)までやったり(^o^)
ときには木箱に玉を入れて足を置いてパチプロみたいにしたり、帰りの電車賃まで使い果たして人に借りて帰ったこともあります。
転職して静岡で研修してから東京で三ヶ月ほどいたときに、両国駅の近くでもパチンコしたけれど、そのときはお相撲さんがユカタのままでパチンコ台に夢中になっていたのを思い出します。
まぁ、よく言われるのは若いときのムチャ遊びはエエとしても、年取ったらアカンとかいうけれど
まだ若いつもりか、ネオンが恋しい(^_^)
ランクル
2025.7.29-14:16
修正
火垂るの墓
「火垂るの墓」は、太平洋戦争末期の空襲で家と母親を失った兄妹悲劇的な運命を描いています。
原作は野坂昭如の小説のアニメ映画です。
昭和20年の話ですが、主人公の清太と節子の兄妹は私の子供の頃と合わさって見えます。
あれほど悲劇ではなかったけれど(2人で防空壕で暮らし)、小学校入学前か低学年のころだったが、妹の手を引いて弟をおぶって近所の子らの遊びに入れず、ただその周りにいるだけ。
鬼ごっこや缶けりなどには入れてもらうけれど、ワンバン野球などのルールがある遊びは親や年上の兄弟のある子はルールを知っているけれどビンボー人の子は親は働くのが必死だから余裕がない。
ボールにしても中心に鉛の玉が入って牛の皮巻いた硬球ではなくゴムの軟球でグローブも布製や革製でも何の皮かわからないもの。
野球道具がまともでない子は、ただ真似ごとでテニスボールのような空気の入ったボールでキャッチボールやワンバン野球をする。
火垂るの墓を見ていると、自由な生活を手に入れたかと思ったけれど、食料は乏しく、節子は栄養失調で亡くなってしまいます。
私ら三人の子供に10円のお小遣いをくれました。
ほとんど毎日のように紙芝居のおじさんが来て、ゲソのアメダキか水飴を売りながら紙芝居をみせてくれるのです。
それらはひとつ五円だから、三人いるのにどれか2本しか買わないので、そのおじさんはダブちゃんいうのですが
お菓子買わない子は、この線から外からやで‥‥‥‥‥と嫌味なことをいう。
意地悪なおっさんではないけれど子供にしたらクソオヤジってなもんやね。
毎年8月になると終戦記念日、日本だけが原爆投下された国として日本国内だけでなく世界の注目になる。
社会人になって、気ままな生き方をしてきたけれど、月のうち三分の一ぐらい西日本を仕事で走りまわていたが、夜行列車の中で小説本の月刊誌を読みながら、これでもマトモなところがあって、広島や長崎に出張先に平和記念館が近いとよく見学に行った。
広島の旅の宿は、平和記念館の近くの原田旅館にいつも決めていた。
その旅館は銭湯もやっていて、被爆者の老夫婦がやっていました。
まぁ、仕事も兼ねていたけれどお酒は美味しいし、西へ行くほど皆親切にしてくれるし、女の人は優しい(^o^)
映画の話から余計なことに話がずれたけれど、文明が進んだというけれど、現在の人間は政治家も若い奴らも人を騙すぐらいしか能がないのか(怒!)
ランクル
2025.8.2-19:15
修正
今月始めに静岡へ行ってきました、森町と言う所に森の石松のお墓がありました
遠州って広いですね。
おたけ
2025.9.7-11:23
修正
美川憲一が「洞不全症候群(よく知らない病名だが)」で入院たらしいね。
私より一つ下の79だ。
転職して静岡の篠原というところで印刷機械のサービスエンジニアとして研修していた頃に流行っていたのが「柳ヶ瀬ブルース」でした。
研修の途中で初めての試運転に行ったのが富士吉田の印刷屋でした。
その時先輩と一緒に印刷機の試運転に付き添われて行き、その夜得意先の社長さんに連れて行ってもらったお店で流がれていたのが柳ケ瀬ブルースでした。
オネエ言葉で私にしては嫌な奴でしたが、コロッケや笑わせる歌番組で見直しました。
生まれなどから苦労したんだなぁと、人間は生きていくのも大変だし、老いることもなかなかなぁ‥‥‥‥‥
ランクル
2025.9.15- 9:27
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国鉄時刻表
遠くへ行きたい などと言うと何か乗り物でいくしかありません。
私は二十歳すぎから仕事で地方周りをしていたので国鉄時刻表を欠かせませんでした。
毎日朝から大阪市内の印刷屋を回っていると、
突然「今晩夜行で広島へ行ってくれ。」とか「鹿児島へ行ってくれないか」と連絡が入る。
その頃は携帯電話などないから、仕事がひと段落ついたら事務所へ公衆電話からなどで連絡するようになっていました。
そんなわけで、2年に一度大幅に改正された国鉄時刻表が10月に本屋とか国鉄の駅売店で売り出されました。
そのときは国鉄だけでなく、全国の大手私鉄のダイヤ改正するも新しく載っているので買いました。
まぁ出張族の必需品といってもいいのでしょう。
国鉄時刻表とは、鉄道や路線バス・高速バス、旅客機、旅客船など公共交通機関の運転時刻をまとめた表、およびその表を多数掲載した冊子などのことです。
時刻表には一般に公共交通機関の運行系統上のある地点(駅・停留場、バス停、港、空港)における発着便の出発時刻を時系列的にまとめたものと、運行系統全体における各運行便の出発地や中継地、到着地となる各地点・施設(駅・停留場、バス停、港、空港)の発着・通過時刻を図表に網羅的にまとめたものです。
列車やバス・航空機などの便の運行・運航計画を表現した線図のことをダイヤグラム(運行図表)ともいいます。
機械科の勉強では、そういうものがあるという程度で専門的なことは勉強しませんでしたが、たしかに理にかなったものなんですねえ。
わが南あわじ市のランランバスもダイヤグラムを研究して、交通回路を便利にすれば乗客も増えるし、高齢者の移動もし易くなのにねぇ。
しかしそんな重要なことすればもし機能しなかったら責任問われたら困るからという腰抜け職員ではこの町は良くならない(怒れ!)
国鉄時刻表は全国の駅や企業などでも使われ、ピークには月間でおよそ200万部が発行されたそうである。
ランクル
2025.8.16-10:29
修正
遠くで汽笛を聞きながら
なんで近頃昔のことをよく思い出すのだろう?
私は終戦の年に生まれました。
そして昭和39年3月に社会人になって、高槻にある大日本セロファンという会社に入りました。
当たり前のことだけれど、川の流れと同じように時代は変化していくのでしょうね。
私は希望退職で半年近く遊んで静岡市の印刷機械メーカーに入社しました。
しかし今年80歳、60年前の社会人になった頃を思い出しています。
わずか二年しかいなかった高槻の思い出も‥‥‥‥‥‥‥‥
全国から集まった67人だった(?)けれど、類は類を呼ぶとかいうけれど、似たような奴が自然と寄ってくるものです。(^o^)
高槻というのは歴史のあるところで、最初に連れ4人か5人で行ったのは耶馬渓というところでした。
それは高槻を流れる芥川の上流にあって、奇岩や断崖、滝などが続いており、その風景を九州の耶馬渓に例えて「摂津耶馬渓」と呼んでいたのです。
そんなに簡単に丘釣りができるものではないよねぇ。
丘で女を釣るなんて下品なやっちゃ(^o9)
高槻は国鉄大阪京都線と阪急京都線、琵琶湖から流れてくる川を隔てた京阪線が走っいて鳥飼大橋を渡れば小学校から高校までずっと一緒だった諭やんが枚方のセキスイにいたはずや。
しかし一遍も会いに行ったことはなかった。
諭やんとは帰省してからは毎年大阪で同窓会(みその)で30年ほど続けているが、ほとんど毎年あっているのに、まぁ社会人になるとそんなもんやろねぇ。
枚方へは菊人形や枚方公園にはよく行きました。
私市の交野というハイキングコースも行ったし、まぁ女の子を引っ掛けの常套手段だけれど失敗ばかり(^o^)
こんなことばかり振り返ってみれば、ほんとうにいい加減な男だったんやなぁと‥‥‥‥‥‥‥
二十歳すぎから放浪の旅をしながら何も得なかったのだろうか。
誰でもそんなことを考えながら終わっていくのやろね。
ふるい歌だけれど、アリスの「遠くで汽笛を聞きながら」を思い出す。
アリスの連中もある意味危ない奴らみたいやったねぇ。
深夜放送のヤンタンも面白かったなぁ
ランクル
2025.8.4-21:05
修正
必殺仕掛人_募集(^o^)
遠くへ行きたいというテーマとはかけ離れていてるけれど、私が二十歳すぎに仕事で一人旅しながら、月刊誌の小説新潮や文藝春秋などを夜行列車の中で読んでいたものが、何年かして映画化されて懐かしさと若かりし思い出もあるので、こうなっているのかも知れません。
木がらし紋次郎や剣豪指南? だったかシリーズで読んでいたので出張の一人旅は楽しいものでした。
今日は池波正太郎の藤枝梅安です。
必殺仕掛け人というのですが、このあとテレビで藤田まことの大ヒットとなる必殺仕事人シリーズになっていきます。
裏街道を歩く人間は多いけれど、庶民からみれば役人や悪徳商人をブチュ! やってほしいのは今も変わりませんね。
暴力はいけませんと言うけれど、裁判に訴えてもまともな判決がださないのではねぇ(怒れ)
ランクル
2023.9.16-21:40
修正
任侠道
私はいろんなところに、自分が生きてきた恥のことも平気で書いているから、お前はんは露出狂なんかと見られているか(^o^)
路上でポコチンを出したりするほどでもないけれど、好き嫌いはハッキリしている。
そんな性分だから顔にでるんですなぁ。
二十歳すぎの若造のくせに、カバン担いで一人旅(出張)なので、大きい会社も小さいところへも行ったら、とても大事にしてくれました。
それで有頂天にるのではなく、ご飯をご馳走になったら話せんわけにはいかないから、オベンチャラで誤魔化してその場しのぎを由としない性格。
途中入社した印刷機械メーカーは、静岡の長沼というところにあって、そこは旧家で、浪曲でおなじみの清水の次郎長の三番目の女房おちょうさんの生家でもありました。
次郎長さんは「おちょう」という名が好きだったのか?みな名前を「おちょう」にしたとか?
恋女房だから一穴主義(^^; とかいうけれど、一奥名主義というのかなぁ(^_^)
次郎長さんのイメージはヤクザの大親分だが、実は事業家で清水港や私設学問所など開いたともいう。
東映任侠もので「花と龍」という映画があるけれど、その原作は火野葦平です。
アフガニスタンの復興に生涯をかけた医師の中村哲さんは、火野葦平は母の兄(伯父)になるそうです。
中村哲さんの父親の中村勉は、石炭の積み出し港として栄えた若松で戦前、港湾労働者の労働運動の活動家でした。
中村勉と家族を助けたのが、港湾荷役業「玉井組」の玉井家でした。哲さんの母親の秀子は玉井家の娘。秀子の両親、哲さんにとっては祖父母の玉井金五郎。
作家火野葦平の「花と龍」は実名モデル。
火野葦平の本名は玉井勝則。
私は広島や九州へは出張の三分の一は行きました。
南へ行くほど人情が熱い。そして女性は優しい(^o^)
旅はいい、遠くへ旅したい。
ランクル
2023.8.31-19:15
修正
中村哲物語
終わりが見えない戦争や、大干ばつに苦しむアフガニスタン。
パキスタンとアフガニスタンにまたがり医療支援を行っていた医師の中村哲先生は、飢餓によって次々に命を落とす子どもたちを前に、白衣を脱ぎすて井戸を掘り、用水路を作りました。
そのことによって、65万人もの命を救ったのです。
どんな時も「命を守る」ために力を尽くした哲先生の生き方に触れ、「本当に大切な事は何か」を考えてみませんか。
大地をうるおし平和につくした医師 中村哲物語
価格 \1,760(本体\1,600)
著者 松島恵利子
脚本家・フリーライターとして活動。アニメ「ちびまる子ちゃん」の脚本を15年に渡り執筆中。
「世のため人のためアニメシリーズ「中村哲物語」乾いた大地を緑に変えた医師」の脚本。
また、人権教育映像の脚本を数多く手掛ける。
ランクル
2023.8.31-19:17
修正
[管理]
CGI-design