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運動唱歌 (鉄道唱歌の節で)
一、登よ坂上る日の光 ひらめく瀬戸の内海の 西南端の一角に 礎堅き津井の里
二、ここぞ平和の我が里ぞ 眺めのひろき学舎は これぞ我等の揺藍ぞ 励め力のある限り
三、霞とまごう春の花 山麓の本村に 小鳥の歌も夢と聞く 野辺の遊びののどけさよ
四、暑さはげしき夏の日は 泳ぎにくらす中津浦 赤銅色に身を干して 鍛えし体は岩のごと
五、高き雁来の秋の空 黄金の波の内原や 川尻谷の水遊び はや夕焼けに松高し
六、北風荒れの冬の海 怒涛乗り切り舟漕ぎに 骨の太りと剛胆は 海国男児の本領ぞ
七、聞け我が村の自治の声 みよ黒煙の漲りを 四隣に誇るこの幸は やがて我等の肩の上
| ランクル 2013.8.31-15:11 |
高度経済成長期、この歌は継承されていました。 校歌と同じく、懐かしく思います。
先日、Youtubeで、春日神社の祭の様子を見ました。 嬉しかったなと。 僕も4年生のときに壇尻に乗せてもらったし、近年祭に行こうと思い続けているのですが、忙しい時期と重なり、市役所に日程を確認すると先週終わった、みたいなことが繰り返されています。僕が小学生の頃は4月5日、始業式前の楽しみと決まっていたのですが。僕らの部落は、同学年がちょうど4人で、太鼓を叩くのに、ちょうど収まった次第。くっさん、やっさん、みきちゃん、どないしょんのだぁか。 えい、えい、えい、 ドンドコドンドンドン。前の日に1時間か2時間公会堂で練習しただけやし、ドンドコドンドンドンと叩きたくても、#%$&%*=+###???、全然揃わなかったのも思い出で、今のYoutube見ても似たような音には笑ってしまいました。もう一つのパターン、ドーン、ドーン、ドンデンドン、ドンデンドン、こちらは簡単だったから出来たし、Youtubeでもバッチリですな。今も昔も変わらぬ、ということに安らぎを頂きました。 祭のときにいつも中津浦の小○さんちから押し寿司を頂いて、おいしかったなぁ。 | 力 2015.5.10-12:59 |
昭和40年代後半の略歴
小学校の周辺には、中央部落の名に相応しく、津井の主要な施設が揃っていました。理髪店、食料品店、薬店、自転車店、衣料品店、淡信、飲食店、文具店、交番、診療所、農協、西淡町役場支所、米販売店、郵便局、幼稚園。 津井の女子バレーは島内無敵、…少なくとも昭和50年代に入ってもしばらくは。 修学旅行は、神戸、京都(、滋賀)、奈良、大阪の2泊3日が定番だったようです。本土に遠いからと、島内では三原郡だけが2泊、洲本市と津名郡は1泊。 学校前の現市道が県道、現在の県道は新設工事中。 津井の各戸が、瓦を焼く窯をガスに切り替えていった。 住宅新築ラッシュ、月に何度も餅ほりがあった。
昭和47年 沖縄が変換され、沖縄県を含む新しい日本地図が教室に貼られました。
昭和48年 プールが出来ました。前年まで中津浦浜で泳いでいました。このとき出来たプールは、水槽が鉄板で、防錆のためヘア・ピン着用で泳ぐのはご法度、女の子には注意が繰り返されていました。水槽がコンクリートでなかったのは、コンクリートが不足していたとの説明がありましたが、今考えるとそんな理由はおかしいでしょう。ちなみに、工事用道路で開削した運動場にタイムカプセルを埋めました。 体育館ができたのも、この年だったかも。それまで講堂と呼ばれていた古めかしい建物が、近代的な明るい建物になりました。 また、この年、西淡FCに津井少年団が発足、津井でもサッカーの本格的な活動が始まりました。翌年、多くの子どもが履いていたシューズは、鬼塚(現アシックス)ブランド、adidasはW杯優勝国西ドイツの選手が愛用していたことから憧れの高価なシューズでした。
管理者さん、ここに書いたらまずかったでしょうか、すみません。m(_ _)m | 力 2015.5.10-13:56 |
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