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淡路瓦(主な生産地は旧西淡町:南あわじ市)は、愛知県三州、島根県石州とともにわが国の瓦の三大産地です。
いぶし銀のような色とつやをした瓦。
焼成の最後の段階で燻化し、瓦の表面に炭素の微粉を付着させたもの。
『いぶし(燻)瓦』は和風建築に調和して世界に誇れるものです。
古代から継がれてきた瓦屋根のある風景を、通りすがりにスマホで撮った画像ですが、日本の気候風土に適した
建築をもう一度見直すためにも掲載していきます。


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製造会社の販売戦略 

私は高校卒業して入った大日本セロファンを2年で辞めて、新聞の求人広告で静岡の工作機械メーカーが造幣局から外国製の印刷機の払下げを受け、印刷機械製造へ転換していた時期でもありました。
本社の静岡と東京で研修した後、大阪を拠点として、西日本全般を受けサービスエンジニアとして試運転や展示会の技術員、阪神・西日本一帯の印刷機械の修理で、一ヶ月の約半分ぐらいは地方出張。 地方の歓楽街をも探索(^o^)。
篠原鉄工所は、静岡の長沼というところにあって、篠原家は旧家で、浪曲でおなじみの清水の次郎長の三番目の女房おちょうさんの生家でもあった。
次郎長さんは三回女房を貰ったとか(いずれも死別?次郎長さんは「おちょう」という名が好きだったのか? みな名前を「おちょう」にしたらしい。

 頼みなき此世を後に旅衣 あの世の人にあふぞ嬉しき

これはお蝶さんの残した辞世である。三十一文字の中のあの世の人とは、いうまでもなく亡き夫、次郎長のこと。
武士の娘で教養も相応に高く、異才列伝というよりは、才女列伝に加わるべき人かもしれない。
当時の社長篠原大二さんの伯母さんに当ると聞いております。
次郎長さんのイメージは博徒だが、清水に縄張りを持ち戊辰戦争で清水港に修理のために立ち寄った咸臨丸の中から、新政府軍に殺された乗組員の遺体を小舟を出して収容し丁重に葬ったことから、山岡鉄舟と知り合い維新後は富士の裾野の開墾に乗り出すなど、私設学問所など開いたり社会事業家として活躍した。
篠原鉄工所は、はドイツ製のハイデルベルグという名機に追いつけ追い越せで、日本の印刷業界も手差し機の時代から自動機への転換期でもありました。
機械メーカーというのは、作ったら売る。売れてその開発費や従業員の給料を稼がなければなりません。販売する対象はどこかということになり、販売先は印刷屋だけなので、印刷機材(活字やインキ、印刷資材)会社を地区の代理店にして、営業担当者が代理店と一緒に印刷機の説明PRや展示会をして販路を拡げました。
印刷機は高額なので購買会(積立をして、いつからでも印刷機を導入できる仕組み;頼母子講みたいなシステム)など、作れば売れるという待ちの販売ではなく、金融機関や印刷組合、毎日印刷屋を回る印刷資材屋まで巻き込んでの販売戦略でした。

※頼母子講【たのもしこう】
一定の期日に構成員が掛け金を出し、くじや入札で決めた当選者に一定の金額を給付し、全構成員に行き渡ったとき解散する。 鎌倉時代に始まり、江戸時代に流行。現在は違法。

高度成長前の日本でしたから、大企業であっても新興企業であっも如何にして売るか工夫をしていましたね。

私が淡路に帰って40年ほどしたとき、印刷機国内ではトップメーカーとなっていましたが、世界的にもシノハラブランドとして優れた技術を持っていましたが消滅してしまい寂しい気持ちになりました。
日本国内だけでなく、世界中に販売されているので、メンテナンスなどのためにデーラーが応援して、印刷機械技術員を集めてサービス会社を作りました。

ここから
瓦のはなしになります(^o^)
「淡路瓦」は、江戸時代から日本の瓦の三大産地(三州、石州、淡路)のひとつとして知られています。

販売方式

石州瓦工業組合は、島根県西部の石見地域で生産される石州瓦。日本第2位の生産力を誇る地場の伝統産業です。
石州瓦は400年前から作られ続けています。石見地方の町並みを見ると、赤茶色の屋根は石州瓦の特徴、釉薬瓦の町並みです。
今では、様々な種類の瓦が生産されています。 石州瓦工業組合では共同販売事業体制をやって全国展開しております。組合において組合員の生産する製品あるいは取扱商品等を一括して共同で販売するもので、取引条件の改善や販路の拡張等を目的としている事業です。

商売の神様 松下幸之助
製造業は売ってナンボ、設備投資の回収・次への飛躍には儲けなくてはなりません。経営の神様といわれた松下幸之助は、松下電器の販売網(ナショナル店会)で販売店と共に発展した。晩年には後継者の時代にはそれが受け継がれず販売店会の前で泣きながら謝罪したともいわれているが・・・
日本企業はそれぞれの販売戦略で、右肩上がりで高度成長時代となって、国民はバブル崩壊まで皆中流意識となって、インフレは悪だというけれどそういう面では良かったのですが・・・・。

◆淡路瓦
兵庫県南あわじ市(旧西淡町)周辺を産地とする瓦で、愛知県三州、島根県石州とともにわが国の瓦の三大産地。
淡路瓦はいぶし瓦が得意で、全国の瓦生産の14%ほどのシェア、いぶし瓦に限った場合、30%以上のシェアとなっていた。
1989年は全国で4億9200万枚ほどが生産されており、出荷金額は574億円ほどであった。

◆燻し瓦(いぶしがわら)
銀色瓦、黒瓦とも呼ばれる、いぶし銀のような色とつやをした瓦。焼成の最後の段階で燻化し、瓦の表面に炭素の微粉をつきさすように付着させたもの。以前はだるま窯を使い、200〜250℃で10時間、さらに550〜700℃で6時間、850〜1000℃で2時間、さらに同じ温度で2時間の「練らしだき」を行い、この段階で煙出し穴を閉じて、松薪、松葉などを入れて焚き口など全てを閉めて「込み」燻しを始める。
炭素と水分が化合して炭化水素となり、瓦の表面に付着する。
燃料は現在では重油からブタンガスなどに変わり、トンネル窯やガス単独窯に製造設備も変化して大量生産されている。
ランクル   2022.5.13-14:06

聖徳太子千四百回忌と瓦 
今年は聖徳太子の千四百回忌に当たる…
(毎日新聞  余録 2021/9/10)

今年は聖徳太子の千四百回忌に当たる。役人の心得として作られたという十七条憲法には「和をもって貴しとなす」のように今にも通じる道徳的内容が含まれている。
第六条が中国の古典を引用して規定するのが「勧善懲悪」である ・ ・ ・ 読んだことはない・ ・がらしい

私が住んでいる津井(淡路島)は瓦の産地だ。
瓦が中国から伝わったのも聖徳太子の時代だから、千四百年ということだ。
日本で始めて建物の屋根に瓦が葺かれたのは、崇峻天皇元年(588年)、朝鮮の百済から僧侶や寺院建築の技術者、そして瓦をつくる技術者が来て、蘇我馬子によって建てられた飛鳥寺(法興寺)であり、それは今から約千四百年前のことである。
(淡路考古学会長 岡本稔先生)

地方の豪族も寺院を建立したことは、各地で飛鳥、白鳳時代の古瓦が出土する寺院跡が発見ざれていることでもわかる。瓦葺きの建物は寺院だけであったのが、藤原宮や平城官などでも瓦が葺かれるようになった。
瓦が生産されたことは、瓦を焼いた窯跡を確認することによってわかる。
淡路で瓦が焼かれた最初の窯跡は、洲本市大野庄慶の丘陵山腹に築かれた窯で、瓦と須恵器という釉薬をかけない硬質の焼き物が焼かれていた。
南あわじ市(旧西淡町)周辺を産地とする淡路瓦は、愛知県三州、島根県石州とともにわが国の瓦の三大産地である。
淡路瓦はいぶし瓦が得意で、全国の瓦生産の14%ほどのシェア、いぶし瓦に限った場合、30%以上のシェアとなっていた頃もある。
時代とともに産業構造も変わっていき、市場原理主義とか新自由主義などと竹中平蔵のようなヘンな経済学で社会が大きく変わってしまいました。

人の心は惑わされて、大きい波や小さい波の中で繰り返されながら時代は続いていきます。
昔と違って、ものを作り、売る工夫、販売しながら顧客との取引の中で改善点がわかってくる。
そうやって製造メーカーが育っていくものです。
石州瓦は、日本第2位の生産力を誇るそうですが、共同販売事業体制をやって全国展開しているそうです。
三州瓦(愛知県)はトヨタ自動車など、世界を相手にする企業の中で鍛えられ、製造設備も先端をいっているようで、産地それぞれに特徴があるようです。

世界や全国展開するグローバル事業は、目まぐるしく変わる経済事情だけでなく、コンピューターを元にするITを取り入れながら進化していくものだと考えております。
聖徳太子千四百年忌というので、瓦屋根は日本建築を支える最大のものだと思うので書いてみました。

(近代和風建築 ウィキペディア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E5%92%8C%E9%A2%A8%E5%BB%BA%E7%AF%89
ランクル   2021.9.12-1:44

首里城再建 
沖縄県は18日、玉城デニー知事直属の「首里城復興戦略チーム」を設置し、県庁内で辞令交付式を行った。
10月末に焼失した首里城の再建に向けいろいろな取り組みが見えます。

瓦の製造業者でもないけれど、生まれたときから周りが瓦工場だったので、少しは瓦について耳学問をしている。
淡路島は屋根瓦の三大産地でもあります。
首里城の赤瓦は、首里城を際立てているイメージに一役担っているのでしょう。
首里城再建のネット上のいろんな文章を見ていますが、元は黒い瓦だったとか、薪を使って焼いたのだから灰色だったとか素人は勝手な意見を書いている。

そんなことはどうでも良いけれど、瓦にしても食器などの器にしても焼き物というのは科学なのだから、素人が考えている単純なものではない。
瓦を葺く技術も長年によっての経験から、施工法もいろいろある。
瓦屋根は日本の気候・風土に合わせた屋根材なのに、地震などの災害にはその時の家屋の壊れ方目立つから瓦葺がよくないという報道も一因している。

消失した首里城の屋根は、淡路で言う本葺き屋根でした。

淡路考古学の岡本稔先生によれば
瓦の始まりは、板で葺いた屋根の上に、土管を二つ割りにしたものを仰向けに並べ、その間に同じ半割りにしたものを伏せて葺いたのが始まりで、その後、仰向けに置いたものが平瓦となり、伏せて置かれたものが丸瓦につくられ、さらに、軒先の丸瓦の端を半円形の粘土板でふさぎ、これに文様が飾られるようになり、これが円形となって現在見るような軒丸瓦ができてきたと考えられる。

首里城の葺き方は基本的には、丸瓦と平瓦で葺かれている。
何度も消失などで、最後に再建されたのが1992年(平成4年)だった(このたびの火事)。
1992年の屋根瓦の平瓦は淡路島の南あわじ市(旧西淡町松帆)で焼かれたのであります。
平瓦以外の道具(役瓦)は沖縄県が調達したらしいが。

添付写真は、南あわじ市津井にある産業文化センターの展示物を撮ったもの(説明のため)であります。

ランクル   2019.11.22-9:21

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