HOME瓦のある風景
淡路瓦(主な生産地は旧西淡町:南あわじ市)は、愛知県三州、島根県石州とともにわが国の瓦の三大産地です。
いぶし銀のような色とつやをした瓦。
焼成の最後の段階で燻化し、瓦の表面に炭素の微粉を付着させたもの。
『いぶし(燻)瓦』は和風建築に調和して世界に誇れるものです。
古代から継がれてきた瓦屋根のある風景を、通りすがりにスマホで撮った画像ですが、日本の気候風土に適した
建築をもう一度見直すためにも掲載していきます。


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屋根瓦の形状 
瓦が生産されたことは、瓦を焼いた窯跡を確認することによってわかる。
淡路で瓦が焼かれた最初の窯跡は、洲本市大野庄慶の丘陵山腹に築かれた窯で、瓦と須恵器という釉薬をかけない硬質の焼き物が焼かれていた。
素弁の蓮華文や三重弧文の軒平瓦の文様や、瓦のつくりかたなどで見ると、飛鳥から白鳳時代のものと思われるから、今から約千四百年前のものである 。
桃山時代、慶長15年(1610年)淡路は姫路の池田輝政の領国となり、輝政は岩屋城を新築した。
慶長18年 (1613年)には池田輝政の三男池田忠雄が領主となり、洲本市由良で成山城を蹟しく築いた。
このとき忠雄は、明石から清水理兵衛という瓦職人を招いた。
理兵衛は洲本市の古茂江で城の瓦を焼いた。
その後、古茂江にいた瓦職人は、津井、阿万、尾崎などで瓦を焼くようになったが、藩の統制で瓦職人は31戸に限られており、淡路で瓦の製造が自由になるのは明治以後である。津井で瓦の生産が始まるのは江戸時代の寛永年間(1624〜1643)からといわれている。
日本建築の一翼を担っている「瓦」、種々の形状の屋根がある。
屋根は、雨・雪・風や太陽の日射をさえぎる覆いであり、建築物の美しさを構成する。

種々の屋根の形状(西日本かわら学院教材 甍より:徳桝敏成著)

屋根瓦の形状   2014.6.14-19:57

姫路城大天守修理完成 
平成27年3月27日より姫路城がグランドオープンする。
世界遺産であり、国宝である姫路城大天守の外壁および屋根瓦の補修工事が完成しました。

淡路瓦の起源は、1613年(慶長18年)に池田忠雄が淡路国津名郡由良浦(現在の洲本市由良)の成ヶ島に由良成山城を普請した際、播磨国から播州瓦の名工清水理兵衛を招いて瓦を作らせたのが最初と言われている。
その後、その弟子により島内の松帆・尾崎・阿万・釜口などで瓦の製造が始められました。
津井(南あわじ市)が瓦の製造集落として有名だが、元々真言宗だったが続いた飢饉のため年貢米が出せなくなって、釜口村(旧津名郡)の妙勝寺を通じて総本山から銀子三百六十目の援助で法華宗に改宗(寛永年間)、そして瓦製造の一大集落となりました。

淡路花博も開催中でありますが、観光事業はひとつの経済政策でもある。
かつて淡路島の経済を支えた瓦産業だが、阪神淡路大震災以降わが国は地震の活動期に入り、日本建築が地震に弱いようなアホなマスゴミの報道により瓦産業が苦境に立たされています。
本来の木造建築技術は耐震構造を考慮されているから何百年も立っているから世界遺産にもなるのだが、そのことを報道しないバカマスゴミだからバカというのです。

姫路城のオープンと瓦製造産地を考えて見ましょう。

ランクル   2015.3.27-8:00

これぞ日本の風景 
淡路市木曽上にある永楽寺から下を見た光景である。
立派な家並みである。
いまどきこのような景色をみることは少なくなりました。
ランクル   2014.10.3-10:40

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