HOME瓦のある風景
淡路瓦(主な生産地は旧西淡町:南あわじ市)は、愛知県三州、島根県石州とともにわが国の瓦の三大産地です。
いぶし銀のような色とつやをした瓦。焼成の最後の段階で燻化し、瓦の表面に炭素の微粉を付着させたもの。
『いぶし(燻)瓦』は和風建築に調和して世界に誇れるものです。
古代から継がれてきた瓦屋根のある風景を、通りすがりにスマホで撮った画像ですが、日本の気候風土に適した建築をもう一度見直すためにも掲載していきます。

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掲載したい画像がございましたら(知的財産権等考慮のうえ)提供いただければ幸いです。
文化遺産の錯覚 
津井というところは、屋根瓦のいぶし瓦で有名だったころもある(^o^)
時代とともに生活環境が変わったり、ときには政治によって人の流れが変わるなど、生きにくいものだ。
衣・食・住というのが人が生きていく基本だと言う。

終戦の年に生まれたので、義務教育を終えると進学するものや手に職を持つために大工や左官になるとか、商店や製造会社に就職したりと多岐ににわたる。
瓦の町だから、大工になる者も何人かいた。
大工見習いというか、親戚や親の弟子入りなのである。
建築士を目指すという格好いいのではないが、十数年すぎると棟梁となって家を建てる優れ者もいる。

ところが最近では日曜大工みたいに、コードレスのドリルでコンパネをビス止めするのもイッチョ前の大工ときたもんだ。
丸太をチョンナで木造りしながら家を建てる。ノミでホゾを開けて組み合わせる名人芸が当たり前だったのに、こんな小さな村にでさえ5人も6人も棟梁がいたのである。
設計図といっても、板に柱の寸法を書いて、組み合わせるというもので、現場に来て組み合わせて棟梁の技量がわかる。
木造建築物を建てる大工という職業は凄いですねえ。
設計図というより板に書いたスミの図面を読み取って家が経つ。
棟上げして、餅まきが田舎の上棟式なのである。

大工さんはココで一旦中断して、屋根葺き屋の仕事になっていく。
屋根屋は壁の下地もやる。壁下地は竹と荒縄が基本なのだけれど、最近は石膏ボードという簡略工法。
こうやって少しずつ旧来の工法からズレながら日本建築の良さが失われていく。
コストばかり考えていると日本独特の文化が消えていく。
瓦の町なので屋根葺きを育てる学校もあったのに、バカな町長が熱を冷ましてしまって無くなった。

「鳴門の渦潮を世界遺産」などと言うている場合でない。
渦潮なんて大なり小なり違いはあるけれど、海流の現象である。
日本でも来島海峡とか佐世保の西海橋の下でもある。

銅鐸が騒がれているが、松帆銅鐸は建設残土を埋めるために堀った砂を野積みしていたら雨に晒されて見つかったというバカな話である。
津井隆泉寺にあるのは最古の銅鐸とも言われているのだが・・・

ランクル   2022.9.14-16:30

日本で瓦が焼かれたのはいつ 

瓦がいつ、どこで造られるようになったかは、現在のところ明らかではありません。現存する最古の瓦は、中国の陝西省岐山県にある西周初期の宮殿遺跡から出土したもので、今から約3000年も前のものということになります。
日本で始めて建物の屋根に瓦が葺かれたのは、崇峻天皇元年(588年)、朝鮮の百済から僧侶や寺院建築の技術者、そして瓦をつくる技術者が来て、蘇我馬子によって建てられた飛鳥寺(法興寺)であり、それは今から約千四百年前のことである。推古天皇元年(593年)に聖徳太子が摂政となると、仏教を深く信仰し、仏教教義を研究された。
地方の豪族も寺院を建立したことは、各地で飛鳥、白鳳時代の古瓦が出土する寺院跡が発見ざれていることでもわかる。瓦葺きの建物は寺院だけであったのが、藤原宮や平城官などでも瓦が葺かれるようになった。瓦当の文様は、飛鳥、白鳳、奈良、平安、鎌倉、室町、江戸と各時代によって変っていくので、瓦当の文様によって寺院跡や寺院の歴史がわかる。瓦の形は古代からほとんど変らず、千四百年も前につくられた飛鳥寺の瓦が、奈良元興寺極楽坊の本堂の屋根にうつされていて、今でも葺かれているのが見られる。
[淡路で瓦が最初に焼かれたのは?]
瓦が生産されたことは、瓦を焼いた窯跡を確認することによってわかる。淡路で瓦が焼かれた最初の窯跡は、洲本市大野庄慶の丘陵山腹に築かれた窯で、瓦と須恵器という釉薬をかけない硬質の焼き物が焼かれていた。
素弁の蓮華文や三重弧文の軒平瓦の文様や、瓦のつくりかたなどで見ると、飛鳥から白鳳時代のものと思われるから、今から約千三百数十年前のものである。この窯に続いて古い窯は洲本市大野土生寺の窯で、同様に瓦と須恵器が焼かれていた。瓦は扁行忍冬唐草文で奈良時代前期、約千三百年前のものである。このあとの窯は千二百数十年前の奈良時代後期三原町八木佐保谷の窯で、国分寺の瓦を焼いたと思われ、蓮華文の軒丸瓦や平瓦が発見されている。
次は約九百年前の平安時代後期になり、洲本市大野宮林の窯、三原町志知の佐礼尾窯で、瓦が焼かれていた。
鎌倉時代のものでは、三原町八木馬廻の成和寺の本堂の右側の窯跡が、約六百数十年前と思われる瓦が焼かれていた。
室町時代の瓦窯跡は、はっきりしない。桃山時代(織田信長、豊臣秀吉の活躍の時代)では、慶長15年(1610年)淡路は姫路の池田輝政の領国となり、輝政は岩屋城を新築した。慶長18年(1613年)には輝政の三男池田忠雄が領主となり、洲本市由良で成山城を蹟しく築いた。
このとき忠雄は、明石から清水理兵衛という瓦職人を招いた。理兵衛は洲本市の古茂江で城の瓦を焼いた。その後、古茂江にいた瓦職人は、津井、阿万、尾崎などで瓦を焼くようになったが、藩の統制で瓦職人は31戸に限られており、淡路で瓦の製造が自由になるのは明治以後である。津井で瓦の生産が始まるのは今から二百数十年前で、清水理兵衛が古茂江に来てから十年あまり後の江戸時代の寛永年間(1624〜1643)からといわれ、池田氏は備前に帰り、淡路は阿波の蜂須賀氏が領主になっていた。
津井や松帆などで瓦産業が発達した理由としては、瓦に適した良質な粘土が浅い地層で大量に掘れたこと、津井港から大阪尻無川への航路ができ、船便による搬送ができたこと。
農業には向いた土地ではなかったので、良質な労働力を充分に得られたことがあげられます。

ランクル   2022.5.13-14:32

津井村で瓦が作られるようになったはなし 

寛永年間(江戸時代の1624年から1644年まで)に当時貧困にあえいでいた津井を尼崎の法華の高僧が訪れ、地表に顕われた土質が瓦製造に適していることを見て、真言宗から法華に改宗することを条件に瓦の製造技術を伝授したという。尼崎の本興寺あてに起請文を一札入れている。
それが今も釜口の妙勝寺に残っている。

寛永の飢饉と法華改宗
室町時代から淡路法華の布教の拠点は尼崎の本興寺を本寺とする釜口の妙勝寺であった。その属坊本妙坊が由良に移って、本妙寺を称し、寛永二年に片田村、翌三年には津井村が一村まとまって法華宗に改宗することになった。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
津井村は御蔵米、年貢を納められず迷惑をかけています。ついては妙勝寺さまに借銀をお願いしたいと思います。法華に宗旨替えすればすぐに未納分の360匁の銀を借用できないでしょうか。改宗については末代まで徹底させますのでご安心下さい。もし心得違いを起こせば360匁に5割の利子をつけて毎年お納めすることお約束します。お伊勢さん、住吉、愛宕、多賀や他のお宮さんに参ることはしません。また高野山や先山、叶堂の観音さんなど真言の寺参り、勧進はいたしません。約束を違えるようなことがあれば日本中の神様の罰を受けて、現世にては重病、後世にては無間地獄に落ちることも覚悟しております。何卒宜しくお願い申し上げます。
寛永3年(1626)11月1日津井村一同
‥‥‥‥‥

※--借銀360匁とはどのぐらい?--
銀50匁 = 金一両 = 米一石で、米一石、現在の貨幣価値にして10万円くらいで、
金一両は4.5匁(18g)で、1g4000円で計算すると72000円、金一両の骨董的価値は約50万円だということらしいです。

寛永年間とはどういう時代だったのでしょうか。
1624年(元和10年・寛永元年)
徳川家光(征夷大将軍:映画でおなじみの水戸黄門)が京都・二条城の拡張、殿舎の整備に着手。
1625年(寛永2年) 熊本で地震。死者約50人
1626年(寛永3年) 二条城完成
1627年(寛永4年) 松代地震。死者多数。
1628年(寛永5年) 8月10日(旧7月11日):大地震があり、江戸城の石垣の多くが崩れた。

ランクル   2022.5.13-14:28

製造会社の販売戦略 

私は高校卒業して入った大日本セロファンを2年で辞めて、新聞の求人広告で静岡の工作機械メーカーが造幣局から外国製の印刷機の払下げを受け、印刷機械製造へ転換していた時期でもありました。
本社の静岡と東京で研修した後、大阪を拠点として、西日本全般を受けサービスエンジニアとして試運転や展示会の技術員、阪神・西日本一帯の印刷機械の修理で、一ヶ月の約半分ぐらいは地方出張。 地方の歓楽街をも探索(^o^)。
篠原鉄工所は、静岡の長沼というところにあって、篠原家は旧家で、浪曲でおなじみの清水の次郎長の三番目の女房おちょうさんの生家でもあった。
次郎長さんは三回女房を貰ったとか(いずれも死別?次郎長さんは「おちょう」という名が好きだったのか? みな名前を「おちょう」にしたらしい。

 頼みなき此世を後に旅衣 あの世の人にあふぞ嬉しき

これはお蝶さんの残した辞世である。三十一文字の中のあの世の人とは、いうまでもなく亡き夫、次郎長のこと。
武士の娘で教養も相応に高く、異才列伝というよりは、才女列伝に加わるべき人かもしれない。
当時の社長篠原大二さんの伯母さんに当ると聞いております。
次郎長さんのイメージは博徒だが、清水に縄張りを持ち戊辰戦争で清水港に修理のために立ち寄った咸臨丸の中から、新政府軍に殺された乗組員の遺体を小舟を出して収容し丁重に葬ったことから、山岡鉄舟と知り合い維新後は富士の裾野の開墾に乗り出すなど、私設学問所など開いたり社会事業家として活躍した。
篠原鉄工所は、はドイツ製のハイデルベルグという名機に追いつけ追い越せで、日本の印刷業界も手差し機の時代から自動機への転換期でもありました。
機械メーカーというのは、作ったら売る。売れてその開発費や従業員の給料を稼がなければなりません。販売する対象はどこかということになり、販売先は印刷屋だけなので、印刷機材(活字やインキ、印刷資材)会社を地区の代理店にして、営業担当者が代理店と一緒に印刷機の説明PRや展示会をして販路を拡げました。
印刷機は高額なので購買会(積立をして、いつからでも印刷機を導入できる仕組み;頼母子講みたいなシステム)など、作れば売れるという待ちの販売ではなく、金融機関や印刷組合、毎日印刷屋を回る印刷資材屋まで巻き込んでの販売戦略でした。

※頼母子講【たのもしこう】
一定の期日に構成員が掛け金を出し、くじや入札で決めた当選者に一定の金額を給付し、全構成員に行き渡ったとき解散する。 鎌倉時代に始まり、江戸時代に流行。現在は違法。

高度成長前の日本でしたから、大企業であっても新興企業であっも如何にして売るか工夫をしていましたね。

私が淡路に帰って40年ほどしたとき、印刷機国内ではトップメーカーとなっていましたが、世界的にもシノハラブランドとして優れた技術を持っていましたが消滅してしまい寂しい気持ちになりました。
日本国内だけでなく、世界中に販売されているので、メンテナンスなどのためにデーラーが応援して、印刷機械技術員を集めてサービス会社を作りました。

ここから
瓦のはなしになります(^o^)
「淡路瓦」は、江戸時代から日本の瓦の三大産地(三州、石州、淡路)のひとつとして知られています。

販売方式

石州瓦工業組合は、島根県西部の石見地域で生産される石州瓦。日本第2位の生産力を誇る地場の伝統産業です。
石州瓦は400年前から作られ続けています。石見地方の町並みを見ると、赤茶色の屋根は石州瓦の特徴、釉薬瓦の町並みです。
今では、様々な種類の瓦が生産されています。 石州瓦工業組合では共同販売事業体制をやって全国展開しております。組合において組合員の生産する製品あるいは取扱商品等を一括して共同で販売するもので、取引条件の改善や販路の拡張等を目的としている事業です。

商売の神様 松下幸之助
製造業は売ってナンボ、設備投資の回収・次への飛躍には儲けなくてはなりません。経営の神様といわれた松下幸之助は、松下電器の販売網(ナショナル店会)で販売店と共に発展した。晩年には後継者の時代にはそれが受け継がれず販売店会の前で泣きながら謝罪したともいわれているが・・・
日本企業はそれぞれの販売戦略で、右肩上がりで高度成長時代となって、国民はバブル崩壊まで皆中流意識となって、インフレは悪だというけれどそういう面では良かったのですが・・・・。

◆淡路瓦
兵庫県南あわじ市(旧西淡町)周辺を産地とする瓦で、愛知県三州、島根県石州とともにわが国の瓦の三大産地。
淡路瓦はいぶし瓦が得意で、全国の瓦生産の14%ほどのシェア、いぶし瓦に限った場合、30%以上のシェアとなっていた。
1989年は全国で4億9200万枚ほどが生産されており、出荷金額は574億円ほどであった。

◆燻し瓦(いぶしがわら)
銀色瓦、黒瓦とも呼ばれる、いぶし銀のような色とつやをした瓦。焼成の最後の段階で燻化し、瓦の表面に炭素の微粉をつきさすように付着させたもの。以前はだるま窯を使い、200〜250℃で10時間、さらに550〜700℃で6時間、850〜1000℃で2時間、さらに同じ温度で2時間の「練らしだき」を行い、この段階で煙出し穴を閉じて、松薪、松葉などを入れて焚き口など全てを閉めて「込み」燻しを始める。
炭素と水分が化合して炭化水素となり、瓦の表面に付着する。
燃料は現在では重油からブタンガスなどに変わり、トンネル窯やガス単独窯に製造設備も変化して大量生産されている。
ランクル   2022.5.13-14:06

聖徳太子千四百回忌と瓦 
今年は聖徳太子の千四百回忌に当たる…
(毎日新聞  余録 2021/9/10)

今年は聖徳太子の千四百回忌に当たる。役人の心得として作られたという十七条憲法には「和をもって貴しとなす」のように今にも通じる道徳的内容が含まれている。
第六条が中国の古典を引用して規定するのが「勧善懲悪」である ・ ・ ・ 読んだことはない・ ・がらしい

私が住んでいる津井(淡路島)は瓦の産地だ。
瓦が中国から伝わったのも聖徳太子の時代だから、千四百年ということだ。
日本で始めて建物の屋根に瓦が葺かれたのは、崇峻天皇元年(588年)、朝鮮の百済から僧侶や寺院建築の技術者、そして瓦をつくる技術者が来て、蘇我馬子によって建てられた飛鳥寺(法興寺)であり、それは今から約千四百年前のことである。
(淡路考古学会長 岡本稔先生)

地方の豪族も寺院を建立したことは、各地で飛鳥、白鳳時代の古瓦が出土する寺院跡が発見ざれていることでもわかる。瓦葺きの建物は寺院だけであったのが、藤原宮や平城官などでも瓦が葺かれるようになった。
瓦が生産されたことは、瓦を焼いた窯跡を確認することによってわかる。
淡路で瓦が焼かれた最初の窯跡は、洲本市大野庄慶の丘陵山腹に築かれた窯で、瓦と須恵器という釉薬をかけない硬質の焼き物が焼かれていた。
南あわじ市(旧西淡町)周辺を産地とする淡路瓦は、愛知県三州、島根県石州とともにわが国の瓦の三大産地である。
淡路瓦はいぶし瓦が得意で、全国の瓦生産の14%ほどのシェア、いぶし瓦に限った場合、30%以上のシェアとなっていた頃もある。
時代とともに産業構造も変わっていき、市場原理主義とか新自由主義などと竹中平蔵のようなヘンな経済学で社会が大きく変わってしまいました。

人の心は惑わされて、大きい波や小さい波の中で繰り返されながら時代は続いていきます。
昔と違って、ものを作り、売る工夫、販売しながら顧客との取引の中で改善点がわかってくる。
そうやって製造メーカーが育っていくものです。
石州瓦は、日本第2位の生産力を誇るそうですが、共同販売事業体制をやって全国展開しているそうです。
三州瓦(愛知県)はトヨタ自動車など、世界を相手にする企業の中で鍛えられ、製造設備も先端をいっているようで、産地それぞれに特徴があるようです。

世界や全国展開するグローバル事業は、目まぐるしく変わる経済事情だけでなく、コンピューターを元にするITを取り入れながら進化していくものだと考えております。
聖徳太子千四百年忌というので、瓦屋根は日本建築を支える最大のものだと思うので書いてみました。

(近代和風建築 ウィキペディア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E5%92%8C%E9%A2%A8%E5%BB%BA%E7%AF%89
ランクル   2021.9.12-1:44

首里城再建 
沖縄県は18日、玉城デニー知事直属の「首里城復興戦略チーム」を設置し、県庁内で辞令交付式を行った。
10月末に焼失した首里城の再建に向けいろいろな取り組みが見えます。

瓦の製造業者でもないけれど、生まれたときから周りが瓦工場だったので、少しは瓦について耳学問をしている。
淡路島は屋根瓦の三大産地でもあります。
首里城の赤瓦は、首里城を際立てているイメージに一役担っているのでしょう。
首里城再建のネット上のいろんな文章を見ていますが、元は黒い瓦だったとか、薪を使って焼いたのだから灰色だったとか素人は勝手な意見を書いている。

そんなことはどうでも良いけれど、瓦にしても食器などの器にしても焼き物というのは科学なのだから、素人が考えている単純なものではない。
瓦を葺く技術も長年によっての経験から、施工法もいろいろある。
瓦屋根は日本の気候・風土に合わせた屋根材なのに、地震などの災害にはその時の家屋の壊れ方目立つから瓦葺がよくないという報道も一因している。

消失した首里城の屋根は、淡路で言う本葺き屋根でした。

淡路考古学の岡本稔先生によれば
瓦の始まりは、板で葺いた屋根の上に、土管を二つ割りにしたものを仰向けに並べ、その間に同じ半割りにしたものを伏せて葺いたのが始まりで、その後、仰向けに置いたものが平瓦となり、伏せて置かれたものが丸瓦につくられ、さらに、軒先の丸瓦の端を半円形の粘土板でふさぎ、これに文様が飾られるようになり、これが円形となって現在見るような軒丸瓦ができてきたと考えられる。

首里城の葺き方は基本的には、丸瓦と平瓦で葺かれている。
何度も消失などで、最後に再建されたのが1992年(平成4年)だった(このたびの火事)。
1992年の屋根瓦の平瓦は淡路島の南あわじ市(旧西淡町松帆)で焼かれたのであります。
平瓦以外の道具(役瓦)は沖縄県が調達したらしいが。

添付写真は、南あわじ市津井にある産業文化センターの展示物を撮ったもの(説明のため)であります。

ランクル   2019.11.22-9:21

木造建築と瓦屋根 
あまり学校に通っているときは勉強しなかったけれど、専門的な授業だけは頭の中に少しずつ残っている。
トラス構造、いわゆる三角形で固定するという基本的な考え方は勉強していなくても経験から判るものなのですが。
木造建築とか鉄骨建築で筋交いをいれますが、アレのことなのです。

トラス構造とは、複数の三角形による骨組構造のことであり、結合部である「節点」はボルトやピンなどで結合されています。 ... トラスの節点は自由度がないため動きませんが、相互に運動できるように結合されているため、部材を曲げようとする力である「曲げモーメント」が隣り合う部材で発生しません。

木造建築と瓦屋根というのは和風建築として「文化遺産」に登録申請してもいいはずだが、何故か「鳴門の渦潮を世界遺産」に申請しているバカどもがいる。
いらかの波というのは、甍とは屋根瓦に覆い尽くされた風景なのだから、ユネスコに文化遺産として申請してもいいと思うのだがねぇ。

建築物の信頼を高める - トラス構造
http://www.jwtc.org/about/index.html?utm_source=GDN&utm_medium=cpc&gclid=EAIaIQobChMI543OksKg4AIVlrOWCh36TQceEAEYASAAEgJD7fD_BwE

添付している画像は高知城の天守閣から撮った写真ですが、これを投稿しているときにそばに他のしゃしんがなかったものですから・・・
瓦屋根を使った写真展なども瓦業界としてはやるべきでしょうねえ。


ランクル   2019.2.4-6:58

新技術にすり寄る挑戦 
固体燃料電池という新技術がある

新しい技術として注目されているのが個体燃料電池だそうだ。
高温(通常700〜1000℃)で稼働し、発電効率が良い(45〜65%)というので、自然エネルギーといっても設置場所などから環境に問題があり、その研究が有望視されている。
発電素子が高温で稼働するという点以外に制約が少ないため、家庭用分散電源、持ち運び用小型発電機、移動電子機器用電源などの新たな用途が見込まれている。
(ウィキペディア)

新技術を開発しろというのではなく、高温で稼働するシステムだから窯業技術がすりよっていける部分もあるだろうと思うのです。
瓦を焼くというのは、粘土を固めて乾燥させた後焼くというもので、セラミック技術の一端でもある。
発電素子の研究だと田舎のおっさん等では難しいのかも知れないが、最先端技術だけでどんなものでも構成されているのではない。
どんな精密機械でもネジやカムの原理があるように、未来の技術固体燃料電池は高温で稼働するというから、焼き物の技術が応用できるのかも知れません。

固体燃料電池の原理は
1. 空気極(正極)に供給された酸素が電子を受け取り、酸化物イオンになる
2. 電解質中を酸化物イオンが空気極から燃料極へ移動する
3. 燃料極(負極)で水素や一酸化炭素が酸化物イオンと反応し水、二酸化炭素が生成される。この際放出された電子によって発電される。

たいへん難しそうだけれど、全てセラミックスで構成されているとか。
セラミック(ceramic)とは、狭義には陶磁器を指すが、広義では窯業製品の総称として用いられ、無機物を加熱処理し焼き固めた焼結体を指す。
金属や非金属を問わず、酸化物、炭化物、窒化物、ホウ化物などの無機化合物の成形体、粉末、膜など無機固体材料の総称として用いられている。伝統的なセラミックスの原料は、粘土や珪石等の天然物である。
(ウィキペディア)

私が中学生に入った頃に、津井で色瓦の研究をしていた方らが窯業会社を立ち上げました。
いぶし瓦しか製造していなかった津井の窯元が、白地に釉薬を塗り焼くという技術を完成させて企業化したものです。
これは発明が高じたものではなく、他産地などでも研究されていたので、津井でも挑んだ勇敢な方たちの成果なのであります。
そしてグループごとに次から次に窯業会社ができて、農家の人たちが工員になって雇用がうまれ、淡路島の経済を支えたのであります。

私が開業した昭和45年ごろには淡路島島内に色瓦の会社が(窯業)31社があり、そのほとんどが津井出身者が関係していました。
寛永年間に飢饉で貧困にあえいでいたのが、法華に改宗して瓦の製造技術を受伝されたことが兵庫県を代表する地場産業にまでなったのでした。
なのに、今では斜陽産業だなどと見向きもしない議員には腹が立つ。

津井が瓦を焼くように成ったのは
瓦のまち(はとビズ:ブログ)
http://hato.s165.coreserver.jp/cgi-bin/lan_pak/inf2.cgi

改宗はある意味魂を売ったという見方もできるかも知れませんが、生きるためには経済がしっかりしていなくてはねえ。

ランクル   2018.12.29-7:59

魔よけの鬼瓦 
神戸メリケンパークオリエンタルホテルに鬼瓦が展示されたという記事である。
震災復興のシンボルとして魔よけの「鬼瓦」で彫刻家で文化勲章受章者の故淀井敏夫氏の作品である。


ランクル   2017.12.10-5:58

屋根瓦の形状 
瓦が生産されたことは、瓦を焼いた窯跡を確認することによってわかる。
淡路で瓦が焼かれた最初の窯跡は、洲本市大野庄慶の丘陵山腹に築かれた窯で、瓦と須恵器という釉薬をかけない硬質の焼き物が焼かれていた。
素弁の蓮華文や三重弧文の軒平瓦の文様や、瓦のつくりかたなどで見ると、飛鳥から白鳳時代のものと思われるから、今から約千四百年前のものである 。
桃山時代、慶長15年(1610年)淡路は姫路の池田輝政の領国となり、輝政は岩屋城を新築した。
慶長18年 (1613年)には池田輝政の三男池田忠雄が領主となり、洲本市由良で成山城を蹟しく築いた。
このとき忠雄は、明石から清水理兵衛という瓦職人を招いた。
理兵衛は洲本市の古茂江で城の瓦を焼いた。
その後、古茂江にいた瓦職人は、津井、阿万、尾崎などで瓦を焼くようになったが、藩の統制で瓦職人は31戸に限られており、淡路で瓦の製造が自由になるのは明治以後である。津井で瓦の生産が始まるのは江戸時代の寛永年間(1624〜1643)からといわれている。
日本建築の一翼を担っている「瓦」、種々の形状の屋根がある。
屋根は、雨・雪・風や太陽の日射をさえぎる覆いであり、建築物の美しさを構成する。

種々の屋根の形状(西日本かわら学院教材 甍より:徳桝敏成著)

屋根瓦の形状   2014.6.14-19:57

姫路城大天守修理完成 
平成27年3月27日より姫路城がグランドオープンする。
世界遺産であり、国宝である姫路城大天守の外壁および屋根瓦の補修工事が完成しました。

淡路瓦の起源は、1613年(慶長18年)に池田忠雄が淡路国津名郡由良浦(現在の洲本市由良)の成ヶ島に由良成山城を普請した際、播磨国から播州瓦の名工清水理兵衛を招いて瓦を作らせたのが最初と言われている。
その後、その弟子により島内の松帆・尾崎・阿万・釜口などで瓦の製造が始められました。
津井(南あわじ市)が瓦の製造集落として有名だが、元々真言宗だったが続いた飢饉のため年貢米が出せなくなって、釜口村(旧津名郡)の妙勝寺を通じて総本山から銀子三百六十目の援助で法華宗に改宗(寛永年間)、そして瓦製造の一大集落となりました。

淡路花博も開催中でありますが、観光事業はひとつの経済政策でもある。
かつて淡路島の経済を支えた瓦産業だが、阪神淡路大震災以降わが国は地震の活動期に入り、日本建築が地震に弱いようなアホなマスゴミの報道により瓦産業が苦境に立たされています。
本来の木造建築技術は耐震構造を考慮されているから何百年も立っているから世界遺産にもなるのだが、そのことを報道しないバカマスゴミだからバカというのです。

姫路城のオープンと瓦製造産地を考えて見ましょう。

ランクル   2015.3.27-8:00

これぞ日本の風景 
淡路市木曽上にある永楽寺から下を見た光景である。
立派な家並みである。
いまどきこのような景色をみることは少なくなりました。
ランクル   2014.10.3-10:40

やっぱり瓦っていいですねえ。 
もしも、私が家を建てたなら〜という歌がありました。
建てるなら「丈夫で、長持ちで、日本の風土に合った家」が・・・・。

建てるなら、木造の家を建てる。

自給自足の生活を目指して野菜と米を作り、五穀豊穣を祈り、晴耕雨読の暮らしを実践する。
ロビンソン・クルーソーは架空の人物であるが、実際に無人島で生活したスコットランドの実話を基にしている。

大きな家も小さな家であっても、自然とともに生きていく棲家は、瓦屋根のある家でしょう。

ゆうゆうファイブを場所を変えて撮りました。
やっぱり瓦っていいですねえ。
   2014.6.14-23:12

甍の波 : ゆーゆーファイブ 

「ウェルネスパーク五色」にある温泉施設(ゆーゆーファイブ)
裏の小高い丘から撮影。
いぶし瓦の魅力とはこういうことなのだと実感します。
   2014.6.14-20:11

[管理]
CGI-design