HOME瓦のある風景
淡路瓦(主な生産地は旧西淡町:南あわじ市)は、愛知県三州、島根県石州とともにわが国の瓦の三大産地です。
いぶし銀のような色とつやをした瓦。
焼成の最後の段階で燻化し、瓦の表面に炭素の微粉を付着させたもの。
『いぶし(燻)瓦』は和風建築に調和して世界に誇れるものです。
古代から継がれてきた瓦屋根のある風景を、通りすがりにスマホで撮った画像ですが、日本の気候風土に適した
建築をもう一度見直すためにも掲載していきます。


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企業城下町 






いらか塾の風景

企業城下町とは、近代工業の発展過程において、特定企業の発展とともに都市が形成され、その企業が地域社会に対し政治・経済・社会的に多大な影響力を持つようになった都市を指す。
企業と地域社会の関係を、封建領主が城を構えた地域に家臣や商人・職人が集住し、城下町が形成されたことに例えた用語である。こうした都市では特定の大企業を中心に、その関連企業や取引先が集積して経済・社会の基盤が構成され、地域経済が発展することで住民へ雇用機会がもたらされることとなる。
『ウィキペディア(Wikipedia)
こんなことは政治に関わる、政治家を目指す人間なら当たり前の考えだろう。
ときどき農協の野菜に関しての消毒や流行している病気のことに関してのチラシを折り込みでみる。
農業界の組織だから当然と思うが、かつて粘土瓦は兵庫県の地場産業を代表するものでした。
そういうことを重々承知の方が町長になり、屋根葺き技術者を育てる専門学校を誘致した。
そして全国の屋根葺職人の全国大会を企画して、各地から応募して大会が行われた。
その誘致した町長に変わって、3期12年した町長は在任中一度も顔を出さず、とうとう「西日本かわら技術学院」はなくなってしまいました。
政治というものは、国であっても地方でも、国民・住民が豊かな生活をするためにあるもので、政治家や役人が稼ぐためのところではない。
国が地方が稼いで税金を納めるから道路も学校もできる。
なんでこんなことが判らない国になってしまったのだろう。
一度も屋根葺き大会に来なかった町長の嫁が議員になっている。
南あわじ市で商店街はあるか?
辛うじてあっても消滅寸前。
企業城下町にぶら下がっている事業所も………….
商工会や商工観光課というのがあるが、事業所の軒数やその構成を統計して考えろや!
経営指導員とか事業所を行政指導するなんいうのは大昔のことだったのか?

市民の頭もオメデタイんだろう。
ランクル   2024.5.25-18:52

文化遺産の錯覚 
津井というところは、屋根瓦のいぶし瓦で有名だったころもある(^o^)
時代とともに生活環境が変わったり、ときには政治によって人の流れが変わるなど、生きにくいものだ。
衣・食・住というのが人が生きていく基本だと言う。

終戦の年に生まれたので、義務教育を終えると進学するものや手に職を持つために大工や左官になるとか、商店や製造会社に就職したりと多岐ににわたる。
瓦の町だから、大工になる者も何人かいた。
大工見習いというか、親戚や親の弟子入りなのである。
建築士を目指すという格好いいのではないが、十数年すぎると棟梁となって家を建てる優れ者もいる。

ところが最近では日曜大工みたいに、コードレスのドリルでコンパネをビス止めするのもイッチョ前の大工ときたもんだ。
丸太をチョンナで木造りしながら家を建てる。ノミでホゾを開けて組み合わせる名人芸が当たり前だったのに、こんな小さな村にでさえ5人も6人も棟梁がいたのである。
設計図といっても、板に柱の寸法を書いて、組み合わせるというもので、現場に来て組み合わせて棟梁の技量がわかる。
木造建築物を建てる大工という職業は凄いですねえ。
設計図というより板に書いたスミの図面を読み取って家が経つ。
棟上げして、餅まきが田舎の上棟式なのである。

大工さんはココで一旦中断して、屋根葺き屋の仕事になっていく。
屋根屋は壁の下地もやる。壁下地は竹と荒縄が基本なのだけれど、最近は石膏ボードという簡略工法。
こうやって少しずつ旧来の工法からズレながら日本建築の良さが失われていく。
コストばかり考えていると日本独特の文化が消えていく。
瓦の町なので屋根葺きを育てる学校もあったのに、バカな町長が熱を冷ましてしまって無くなった。

「鳴門の渦潮を世界遺産」などと言うている場合でない。
渦潮なんて大なり小なり違いはあるけれど、海流の現象である。
日本でも来島海峡とか佐世保の西海橋の下でもある。

銅鐸が騒がれているが、松帆銅鐸は建設残土を埋めるために堀った砂を野積みしていたら雨に晒されて見つかったというバカな話である。
津井隆泉寺にあるのは最古の銅鐸とも言われているのだが・・・

ランクル   2022.9.14-16:30

日本で瓦が焼かれたのはいつ 

瓦がいつ、どこで造られるようになったかは、現在のところ明らかではありません。現存する最古の瓦は、中国の陝西省岐山県にある西周初期の宮殿遺跡から出土したもので、今から約3000年も前のものということになります。
日本で始めて建物の屋根に瓦が葺かれたのは、崇峻天皇元年(588年)、朝鮮の百済から僧侶や寺院建築の技術者、そして瓦をつくる技術者が来て、蘇我馬子によって建てられた飛鳥寺(法興寺)であり、それは今から約千四百年前のことである。推古天皇元年(593年)に聖徳太子が摂政となると、仏教を深く信仰し、仏教教義を研究された。
地方の豪族も寺院を建立したことは、各地で飛鳥、白鳳時代の古瓦が出土する寺院跡が発見ざれていることでもわかる。瓦葺きの建物は寺院だけであったのが、藤原宮や平城官などでも瓦が葺かれるようになった。瓦当の文様は、飛鳥、白鳳、奈良、平安、鎌倉、室町、江戸と各時代によって変っていくので、瓦当の文様によって寺院跡や寺院の歴史がわかる。瓦の形は古代からほとんど変らず、千四百年も前につくられた飛鳥寺の瓦が、奈良元興寺極楽坊の本堂の屋根にうつされていて、今でも葺かれているのが見られる。
[淡路で瓦が最初に焼かれたのは?]
瓦が生産されたことは、瓦を焼いた窯跡を確認することによってわかる。淡路で瓦が焼かれた最初の窯跡は、洲本市大野庄慶の丘陵山腹に築かれた窯で、瓦と須恵器という釉薬をかけない硬質の焼き物が焼かれていた。
素弁の蓮華文や三重弧文の軒平瓦の文様や、瓦のつくりかたなどで見ると、飛鳥から白鳳時代のものと思われるから、今から約千三百数十年前のものである。この窯に続いて古い窯は洲本市大野土生寺の窯で、同様に瓦と須恵器が焼かれていた。瓦は扁行忍冬唐草文で奈良時代前期、約千三百年前のものである。このあとの窯は千二百数十年前の奈良時代後期三原町八木佐保谷の窯で、国分寺の瓦を焼いたと思われ、蓮華文の軒丸瓦や平瓦が発見されている。
次は約九百年前の平安時代後期になり、洲本市大野宮林の窯、三原町志知の佐礼尾窯で、瓦が焼かれていた。
鎌倉時代のものでは、三原町八木馬廻の成和寺の本堂の右側の窯跡が、約六百数十年前と思われる瓦が焼かれていた。
室町時代の瓦窯跡は、はっきりしない。桃山時代(織田信長、豊臣秀吉の活躍の時代)では、慶長15年(1610年)淡路は姫路の池田輝政の領国となり、輝政は岩屋城を新築した。慶長18年(1613年)には輝政の三男池田忠雄が領主となり、洲本市由良で成山城を蹟しく築いた。
このとき忠雄は、明石から清水理兵衛という瓦職人を招いた。理兵衛は洲本市の古茂江で城の瓦を焼いた。その後、古茂江にいた瓦職人は、津井、阿万、尾崎などで瓦を焼くようになったが、藩の統制で瓦職人は31戸に限られており、淡路で瓦の製造が自由になるのは明治以後である。津井で瓦の生産が始まるのは今から二百数十年前で、清水理兵衛が古茂江に来てから十年あまり後の江戸時代の寛永年間(1624〜1643)からといわれ、池田氏は備前に帰り、淡路は阿波の蜂須賀氏が領主になっていた。
津井や松帆などで瓦産業が発達した理由としては、瓦に適した良質な粘土が浅い地層で大量に掘れたこと、津井港から大阪尻無川への航路ができ、船便による搬送ができたこと。
農業には向いた土地ではなかったので、良質な労働力を充分に得られたことがあげられます。

ランクル   2022.5.13-14:32

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