稲田騒動が分岐点
2019.03.14
今日の毎日新聞地方版に県政150週年フィナーレイベントとかいう記事がありました。

私の高校時代の恩師の育ったお宅が「益習館」があったところです。
現在は洲本市に寄贈されて「旧益習館庭園」として歴史を伝えています。
兵庫県政150年はいいとして、淡路島帰属のはなしはちょっと違うのじゃないかと・・・・

庚午事変(稲田騒動)
江戸時代の初めの元和元年(1615年)に大阪の陣の功労で淡路島は当時阿波一国を治めていた蜂須賀氏の領土となる。
その淡路島を阿波藩筆頭家老であった稲田氏が由良城代として任され、のちに洲本城代となる。
阿波藩の蜂須賀氏の家臣である稲田氏は家臣でありながらも稲田氏の初代である稲田植元(たねもと)の代に蜂須賀氏とは『義兄弟』の縁を結んでいたこともあり、阿波と淡路島に合わせて約1万4000石余りという大名並みの俸禄が与えられ参勤交代などの諸役も免除されており経済的にも恵まれ一般的な主従の関係とは異なっていた。
そのため、稲田氏の家臣はみな誇りを持って生活をしていた。
しかし、阿波藩の家臣(直臣)からみれば、いくら恵まれた生活をしていようと稲田氏の家臣は家臣の家臣(陪臣)であり、身分は下でであるとして差別されていた。
また、阿波藩は朱子学を主流にし、家臣を教育していたのに対し稲田氏は益習館で実学を主流に家臣を教育しており、学問思想にも隔たりがあった。さらに幕末期には阿波藩側は佐幕派であったのに対し稲田側は尊王派であり、阿波藩側との対立をさらに深めていった。

そんな中、幕末期には本藩側は佐幕派であったのに対し稲田側では尊王派であり、稲田側の倒幕活動(尊王攘夷派運動)が活発化していくにつれ本藩側との対立をさらに深めていくようになったのです。
そして明治維新後、武士の身分を士族と卒族に分けるという版籍奉還(はんせきほうかん)の禄制改革により徳島本藩の家臣は士族、また稲田家当主は、一等士族として最高の千石給与となったのですが陪臣(徳島本藩の家臣)である稲田氏の家臣は卒族とされました。
この事に稲田氏の家臣は納得できず自分達の士族編入を徳島本藩に訴えかけました。
それが叶わないとみるや今度は洲本を中心に淡路を徳島本藩から分藩独立させて、稲田氏を藩主とする稲田藩(洲本藩)の設立を目指すことで士族になろうとするようになり明治新政府にも独立を働きかけていきました。

このような稲田家の動きが、蜂須賀本藩一部の家臣の激しい怒りをかい明治3年5月13日(1870年6月11日)の早朝徳島県知事、稲田九郎兵衛邦植とともに上京の折蜂須賀家臣ら洲本在住の一部過激派徳島藩青年武士800人銃士100人と銃卒4個大隊、砲4門からなる部隊が洲本下屋敷町の家老稲田邦植の別邸や益習館(稲田家の学問所)
宇山の稲田武山邸や市中の稲田家臣の屋敷を襲い無抵抗の者を殺傷し、火を放ったのです。
これによる稲田側の被害は自決2人、即死15人、重傷6人、軽傷14人。
他に投獄監禁された者は300人余り。焼き払われた屋敷25棟。
これが稲田騒動と呼ばれるものです。
この年は庚午の年であったことから、庚午事変とも呼ばれています。

この事件に対する中央政府からの処分は予想以上に厳しく徳島藩側主謀者小倉富三郎・新居水竹ら10人がうち首(藩知事の嘆願陳情でのちに切腹)八丈島への終身流刑27人、81人が禁固その他謹慎など多数に至るに及んだそうです。
藩知事や参事らも謹慎処分を受け、藩自体の取り潰しはなかったものの洲本を含む津名郡は明治4年5月に兵庫県に編入されることとなりました。
一方、稲田側に対しては、この事件を口実に北海道静内と色丹島の配地を与えるという名目で10月15日、兵庫県管轄の士族として移住開拓を命じ主人の稲田邦植以下家臣全員が北海道の静内郡と色丹島(後に返上、現北方領土)へ、翌年には日高国静内へと移っていったのです。
こうして洲本の益習館は焼き払われましたが、北海道へ移民した稲田家によって北海道で再建されることとなったのです。
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おたけ - 2019年03月17日 20:56
明治になってから侍の処罰は打ち首だ!切腹だと処罰されたのでしょう、裁判なんてのはもう少し先の話ですかね?
検索エンジンに「最後の切腹」で検索掛けるとこの事件が出てきます。
淡路島の武士は白い足袋を履かせてもらえなくて「浅葱足袋」だったらしいですね?

またこの時代の女性を主人公にした小説がテレビで放送されたましたね
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E7%99%BB%E5%8B%A2_(%E5%B0%8F%E8%AA%AC)
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