第二の創業へ
2020.01.30
三原町時代から農業公園問題に疑義があって、美菜恋来屋へは行きたくないし、これからも行くことも無いだろうと思っていたけれど、長い人生だから変わることもある。
南あわじ市では商工業者は生きていけないような政治状況にある。
生きていくためには経済活動は絶対の必要条件なのであります。
だからナニをする、ナニして生きていこうかといろいろ考えながら思案中というところだ。
前にもどこかに書いたように、第二の創業としていろいろ策を練っているけれど、なかなかそんなに甘くはありません。
甘いのは、紅はるかという焼き芋に辿り着いたけれど、芋選びという問題もあって、まだ完成したとは言えない。

よろずやみたいなことだから、一つだけ道がひらけたようだけれど、蓄えがあるわけではないので、生きる足しにはならない。
烏骨鶏の孵化と産卵はほぼ目途がついて、現在40羽ぐらいまで増やした。
卵を生む成鶏が20羽ぐらいいるけれど、2日に一個ぐらいしか産まないけれど、高い卵でも事情がある人は買うみたいだけれど宣伝不足と効能を広めないと。
売るためには烏骨鶏の薬効のPRをしなければならないので、ネット上にあることを調べて整理している。
まずは「酢卵」がいちばん推奨して問題ないようだ。
自分で10ヶ月ぐらい毎日食事の前に飲んでいる。
そのお陰で若いときのように、顔を撫でるとシットリするようになった。
毎月血圧の薬をもらいに医者に行っているが、血圧も正常だ。
ともだちの薬剤師は、もう薬いらんかもというけれど、月に一度だけれど、看護婦さんに腕を触られる嬉しさに、通院はやめられない(^o^)

薬膳研究と大きな看板を書いた。
無花果をドライフルーツにしたり、烏骨鶏を発酵飼料で飼ったり、焼き芋も薬膳としても立派な存在でもある。
最近挑戦しているのが、黒にんにくだが、最初はどのようにするのか解らず、ちょいかじりでやったら、硬すぎて不評。
なにせ機材を作るのが好きなので、ドライフルーツの改造で、湿度を高くする組み合わせがなんとかいけるようになって、まずは硬いと言われる程ではないが、もうすこし工夫がいるようだ。
いずれにしても、実験するためにはニンニクが必要なのだが、時期外れであちこち探しているがなかなかない。

中田市政の悪辣ぶりに、美菜恋来屋には行かぬつもりだったけれど、南あわじ市の事業となってしまったので、そうとばかり言っていたら、赤字の穴埋めはだれがするっとなるのでニンニクを買いに行った。
苦しい言い訳だにゃあ(アベよりはマシかも)
ジャンボにんにくをこれまで3回ほど買いに来た。志筑のプラントにはないかとあちらへ行った時に覗いてみるけれど、オフシーズンなのでどこにもない。ネットにもない。
美菜恋来屋には客は少ない。
金を掛けた割には、安じていたことが現実みたいだけれど、後は市や議員がどうするか知恵を出せばよい。

黒にんにくの第二号機が昨日なんとか出来たので、買ってきたニンニクを酢に漬けて明日、熟成器に入れるつもりだ。
モノづくりというのは、出来上がる前は上等の製品が出来上がるとワクワクした気持ちで待っている。
黒にんにくの完成するのは一ヶ月後なのである。

これで売る品物がナンボか出来るのだけれど、
「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず・・・」
わが屏風谷記はなかなかですわ。

映画ばなしから「駒」
2020.01.13
むかしの映画は、エエモンとワルモンをはっきりと観客に判り易すくしていました。

住んでいるところはド田舎なので、都会で事業をして大成功した方が、母校の子どもたちに映画を見せてあげようと、校庭で納涼を兼ねて映画祭でした。
その奇特な方は、私が入学した頃の津井小学校の二宮金次郎像も寄付されたとか。
そのわが母校も廃校となって、いわゆる辰美地区(伊加利小、丸山小、阿那賀小、津井小)四校で辰美小学校に統合しました。

戦後焼け跡からの復興からなので、辛い思い出もあったけれど皆が前に向かって希望を持って歩けば、それなりに道は開けるものでした。
私の家から300メートルほどのところに、大工の棟梁だった方が、ドサまわりの一座が芝居ができたり、映画を上映できるような芝居小屋を作りました。
小学校低学年の頃の映画の思い出で、嵐カン主演の鞍馬天狗に美空ひばりが出ていたり、エノケンの喜劇映画を見たというのは自慢です。
思い出しついでに、いま関西の女性芸人の大御所になっている上沼恵美子さんですが、私の母親の姉の婿さんと上沼恵美子の母親とが従兄妹だったのです。
建前や婚礼などの宴席にはいつも上沼恵美子の姉の百々ちゃんが私の隣に座っていました。
上沼恵美子さんのお父さんは、日掛けや月掛けの銀行の外交員でした。
二足のワラジというか、興業師みたいなことが好きで、本人も手品や司会をやるなど、お父さんの夢が二人のお子さん、百々子さんと恵美子さんで開花したということでしょう。
お母さんは津井生まれで、ヒサエちゃんと呼ばれて親しまれていました。

話が横道に逸れましたが、その映画館では月に2回(土・日)、封切りから1年遅れみたいな古いけれど、今でも名作といわれる映画を見られたというのは幸せでした。
映画好きになったのは、私の父親が勤めていたところから国産第一号のシャープのテレビを貰ってきて(新品を買ったので)、中学生の頃はクラブがない時に帰って、3時ころからフランス映画などの洋画をよく見ました。
名作「自転車泥棒」とか「悲しみの天使」などです。
フランス映画はアメリカの西部劇とちがって、ストーリーは悲しい話とか考えさせられる映画が多く、正義とか社会学という勉強になったかなぁと思います。

正月早々自衛隊が米軍の弾除けに「中東派遣」となったニュースだ。
この流れが続いていけば、孫たちの時代には「徴兵制」になるのですゾッ!
アンネの日記とかで、映画から戦争の悲惨なことも学んだ。

また淀川長治みたいなことを書いたけれど、戦争もダメ、不正は勿論 「アカン」「ダメ!」悪は滅びる。滅んでくれなければ アタシャこんな話を長々として無駄になる。





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