デジタル庁新設に思う
2020.09.25
安倍晋三が総理大臣職をなげだして、菅官房長官が引き継ぐことになりました。
目玉かなにか知らないけれど、デジタル庁を新設する計画らしい。
各省庁や地方自治体、行政機関の間でスムーズにデータをやりとりできるようにし、行政手続き全般の迅速化を目指すのがもくてきということですね。
国民のすべての情報を握るということですな。
なぜかすごいことを考えていると喜んでいるヘンな日本人の多いこと。

私はコンピューターなど専門的な勉強はしませんでした。
コンピューは便利だ、計算はもちろん、いろんなことを識別したりできるからというので、手探りでやりたしました。
計算なら簡単だけれど、処理させるというのはどういうことなのか判りませんでした。
basicとかいうプログラムの本も買いましたが、意味がよくわからない。
いろんなコンピューターの参考書を見ていると、
Aに+1 して ある数になれば どこかへジャンプとか
何件かのデータを検索して 何件あったかの答えが メモリに表示させる
など、それらの結果を複合的に処理をすることができるのがコンピューター、そういうことを人類の幸せのために利用するのが良いのですが。

プログラムの達人ではないので、法学の弁証法というのか(?)とは考え方は大きく違います。
弁証法というのは、物の考え方の一つの型で、「AはAである」という同一律を基本に置き、「AでありかつAでない」という矛盾が起こればそれは偽だとするのに対し、矛盾を偽だとは決めつけず、物の対立・矛盾を通して、その統一により一層高い境地に進むという、運動・発展の姿において考える見方。

はぁ?

法律ってそんなに難しいものなのでしょうか。
「正⇒反⇒合」として説明されることが多い弁証法は難しいものと捉えられがちですが、実はよりよい変化や発展を促すとても使いやすい思考方法なのだそうです。

意見が提示される
その意見に対立する意見
はじめに提示された意見とあとから出された意見を統合して新しい意見が出る。
このような思考結果(裁判で言うなら判決)は、身近な日常生活の中でたくさん見られるが気が付かない。

デジタル的な考え方もあるけれど、人が生きている世の中はアナログな世界なのである。
不正を庇って、法律論争ってアリか?


戦後75年
2020.08.07
戦後75年だ。
私は終戦の一か月前に生まれたので、戦争体験者なのだろうか(^o^)
後期高齢者となって、自分がここまで長生きするとは思わなかったけれど、生きている。
最近は生き辛い世の中だからどうでもいいけれど、お国のために命を捨てた人々の事を忘れている今の政治で怒りを感じている。

広島・長崎に原爆が落とされた広島の「黒い雨」裁判が結審した。
若い頃広島や長崎によく出張して、仕事の合間に原爆資料館も見ました。
広島での宿は、原爆ドームの近くの原田旅館というところで、そこの館主はご夫婦そろって被爆者でした。
銭湯と旅館をやっていて、安く泊まれるというので先輩からの申し送りで、広島へ出張のときは必ず泊まっていました。
教科書に載るぐらいの長崎大水害の長崎にもよく出張しました。
大水害は昭和58年だったので、あの水害ではなかったけれど水害の後の機械の整備で一週間ほどいました。
高知の台風後の水害とか高松で2メートルぐらい印刷機が遣ったとの整備とか、災害には一週間とか十日ぐらいのナガイ出張でした。

行き帰りには月刊誌をよんだりして、汽車の旅もいい経験でした。
そういうことを振り返りながら、広島、長崎に原爆が投下されて七十五年のニュースをみています。
安倍自民党は、戦争できる国へと憲法をかえようというのですが、そういうことなのに国民は自民党に忖度している。
私の周りには自民党信者が多い、面と向かって言えないぐらいの方もいるけれど、そういう人たちが狂わせているのだが、それに対抗する勇気が乏しいというところだ。
もう戦争に駆り出されることはない年だけれど、可愛い孫が兵役になるというのですよ。

まともにものを考える人間がいなくなったということだろう。
晩飯の時テレビを付けたら、バラエティだらけ。
もう少し真面目に生きられないのだろうか。

添付写真は父親の従軍勲章です。
子供のころ鉄兜などで無邪気に遊んでいたけれど、今になって戦争というものを考えて、まともな政治をしない政治家に呆れている。
怒れ国民!

怪童と怪老のちがい
2020.05.05
宗祖日蓮聖人が誕生して(御降誕というらしい)令和3年は800年にあたるらしい。
いい加減な生き方をしながら生きてきましたが、私は津井で生まれ、一時は淡路をはなれて全国を仕事で回ったことがあります。
世の中を見るという大それた考え方を言うのではないけれど、地球儀を見てみたら日本というのは、こんなに小さいものだと判ります。
地球儀という模型を通しての実感と、現実に現場で肌身に感じるのとでは大違いです。
しかし、臨機応変の人もいます。
そういう人は立派だ。
可怪しいと思ったら、オイ!
これは異常ではないのか!
アカン
そう言える人間と、とにかくお零れ頂戴では、もう溢れるもんなんかありゃせんのんや。

日蓮は、1222(貞応1)年に生まれ、1282(弘安5)年になくなりました。鎌倉時代120年間の真ん中あたり、源実朝が暗殺されて北条氏の時代になったころに生まれ、文永の役・弘安の役と続いた元寇の翌年までを生きた人です。
十二歳の時、生まれ故郷に近い千葉県の清澄寺に入山、十六歳で出家した日蓮は、京都や鎌倉で猛烈な勉強をしたあと日蓮宗を開きました。

また相変わらずの事で話が横道に逸れるが、近年とくに凄い若者を見るようになりました。
将棋の藤井聡太くん、昔は尾崎行雄投手は怪童の代名詞。
いまは怪老と呼ばれる政治家はわんさといる現実、むかしは疫病が流行れば宗教家が現れることが多かった。
日蓮は宗教家でありながら政治的発言をするなど、過激とさえいわれる布教活動で知られています。
その流れの創価学会の公明党だ。
混迷党に名前を変えたほうが宜しいのかもね。

「雨ニモ負ケズ」などのすぐれた詩や童話を書いた宮沢賢治は、日蓮宗の熱心な信者でもあったそうだ。
コロナ禍の中から何が生まれるのだろうか?

雑感 限界集落
2019.07.04
年をとってくると寝付きが悪く、早寝したときには3時間か4時間ぐらいで目が覚める。
若いときにはすることがあったけれど(^_^)、年寄りにはやることがない。
だから妙な瞑想のようなことが頭の中を走り抜ける。

田舎が元気だった頃は、その家には跡取りを残すことはルールではないけれど、社会の仕組みとして当たり前になっていた。
あの忌まわしい戦争が終わって、焼け野原になってしまったことで復興というシステムが取り入れられた。
「無」から「有」を作り出すと言ったって、忍術のような方法「技術開発=モノづくり技術」として自動車産業や家電事業だったのかも知れない。

終戦の年に生まれたので、庄屋クラスの家でも贅沢な暮らしはままならなかった。
私の同級生で、おじいさんもお父さんも村長だった人間がいた。
彼は中距離走では中学卒業してからでも、十?年間全淡か三原郡だったかの記録が破られなかった。大学を出て民間企業に入ったけれど、郷里に帰って公務員になっていました。
大阪にいた頃時々一緒に飲んだことがあるけれど、若死にしてしまいました。
いつかは村長の孫だから、そうなっていくだろうと誰もが思っていた。
名門の家の子はそれなりにプレッシャーもあったのだろう。

国策ではないかも知れないが、地域から優秀な人材を集めて高度成長して世界第二の経済大国といわれるほどまでになったけれど、平家物語である(^o^)
焼け野原状態からの復興に、国は中央集権を補完するために超一級の大卒を入れて、愛国心の政治家と優秀な官僚とで高度成長したのであります。
まぁそれが地域からは人材が流出してしまうことになったけれど、高度成長は地方にも富をもたらしたから、兄弟の中で高等教育を受けた者は都市住民となり、残った「跡継ぎ」(かなら長男ばかりでない)が地域社会を切り盛りしました。
高度成長によって国も栄えたので、人的に貢献した地方には、都市住民からあたかも償い(地方交付税等)があって日本国中経済的には潤っていきました。

ところがですよ、都市住民は地方への「仕送り」ができなくなり、平成の大合併となったのです。原因は権力を勘違いして腐敗していったから。
「頭脳」と「エンジン」を持たない地方、そんな言い方をすれば非難が集中しますが、今の政治をみれば「忖度」することが無脳の証明でしょう。
まぁどっちもどっちというところでしょうねえ。
「わがまち」の個性とは、大昔のことだけれど、天地変動による飢饉によって宗旨替(真言宗→法華宗)が瓦製造技術の伝授、そのことが地域経済への貢献となって、その恩恵を地域全体に及ぼしたのである。
ところが地球の活動期に入るや度重なる大震災、ニュース報道はあたかも瓦が悪いとなっている。日本の技術は凄いのに、屋根にあんな重たいものを乗せるからという単細胞なアタマでモノを言う。単細胞同士の判断行動なのである。
瓦師でなければ人間でないというような時代もあったけれど、瓦城下町だったのに地震は落城したかのように限界集落になってしまった典型の村に。
単一商品で成長した企業と同じで、ニーズが変われば転げ落ちるようになった少子高齢化の典型的な地域だ。
廃校になった小学校跡地をどうするか、行政は「福祉の里」などと聞こえのいい名前をつけているけれど、一億円に近い補助金をくれてやったのに開業が遅れ、何とかオープンしたようだが、綺麗な建物なんけれど静かだ、施設としてはそれも良いことなのだが・・・・。
500戸もある集落だから、無医村ではいけないので国保診療所としてあったが、赴任してきた医師が民間診療所に譲り受けたのが60年ぐらい前、その医師が横浜で開業するとなって、次の診療所に受け継がれ地域医療に貢献してきたけれど、医師も人の子だから、一年経ったら1歳としをとる。もう限界だと閉院した。
小学校前にあった診療所だから、本当に惜しい。
「福祉の里」の大元は四国の医業。
介護ビジネスで全国展開する事業者が多いが、「医」は「算術」というのを地でいってもらっては困る。
地域医療を考えるのは政治だろう。

日本には「赤ひげ」はいくらでもいるのに・・・・(怒)

チキンレース
2019.05.11
相手の車や障害物に向かい合って、衝突寸前まで車を走らせ、先によけたほうを臆病者とするレースのことだが、ジェームズ・ディーンの「理由なき犯行」という映画は、ちょうど高校生になって津井というド田舎から淡路の中心地洲本へ毎日電車で通うという私にとっては大変革の頃でした。
洲本へ毎日通学するというのは、いまなら毎日梅田や難波へ通うようなものに近いものであります。

現在は高速バスが何本もあるし、運営会社も淡路交通だけでなく乗り入れている会社もたくさんあるので、比べるには適当でないかも知れないが、その頃の洲本といえば東洋一の紡績工場(鐘紡)があって、映画館が4つもあったのです。
映画と小説は思春期の心と体の相談室ではないけれど、おなじ境遇の同志が見えたというのかも知れません。
ほんとうは親は子供の成長をハラハラしながら見ているのでしょうが、そういう時期は誰も解決法はなく、暴走しないかを見ているしかなかったのでしょう。
そういう意味で、私の成長期には両親は当然のことですが、良い先生方に見守られながら過ごしたんだなあと今になって感じています。

理由なき反抗という映画は、孤独と不安と怒りの青年から大人になる誰もが経験することだと思うが(今だからそう言える)、一人前の人間ではないくせに、大人ぶった意見や意志表示して家の中でも親と衝突したり、学校では校則に背いて、それを破る行動をしてしまう。
なんで「長髪」がいけないのだ、靴は「白い運動靴」でなければいけないのか、などと闘争心をむき出しにする。
そんな行動だけなら、今でも大人やマスコミは理解があったり応援もしてくれるだろう。
まぁ、大人のような考えもあるけれど、一貫していないのが未熟なところなんですね。
学期内には中間考査と期末考査があって、義務教育でないので単位が取れなくては進級できない。
試験前には授業は午前中だけ、そういうのがチャンス到来なので不良少年は友達の家でマージャン(^o^)
大学への進学などということが入った目的ではない実業高校なのだ(^_^)
しかし、単位が取れなかったら1年生から2年生、3年生なら卒業できなくて留年することになる。
私の高校生時代には他の科だったけれど進級できなくて1年生を再度やった人間もいました。

考えてみたら、留年してもやめないで行った奴もある意味凄いと思う。
人生は長い山道を重たいものを担いで歩いていくようなもの。成功者のようにもて囃されている人はいるけれど、それはいま歩いている途中の姿なのだろうが、チキンレースやギリギリの切羽詰まった経験を積んできた人たちと、トドの詰まりになって強さを発揮できるのはどちらなんだろうかねえ。

相手を屈服させようとして、互いに強引な手段をとりあう争いがいまアメリカと中国という世界の双璧でチキンゲームが行われている。
ジェームズ・ディーンという俳優は24歳で交通事故で死んだ。
「エデンの東」、「理由なき反抗」、「ジャイアンツ」これらの名作はいつ見ても心が騒ぐ。

それにしても、トランプと習近平の不良青年もどきのチキンレース。
こういう人間が世界のリーダーとはなぁ(怒)





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