映画ばなしから「駒」
2020.01.13
むかしの映画は、エエモンとワルモンをはっきりと観客に判り易すくしていました。

住んでいるところはド田舎なので、都会で事業をして大成功した方が、母校の子どもたちに映画を見せてあげようと、校庭で納涼を兼ねて映画祭でした。
その奇特な方は、私が入学した頃の津井小学校の二宮金次郎像も寄付されたとか。
そのわが母校も廃校となって、いわゆる辰美地区(伊加利小、丸山小、阿那賀小、津井小)四校で辰美小学校に統合しました。

戦後焼け跡からの復興からなので、辛い思い出もあったけれど皆が前に向かって希望を持って歩けば、それなりに道は開けるものでした。
私の家から300メートルほどのところに、大工の棟梁だった方が、ドサまわりの一座が芝居ができたり、映画を上映できるような芝居小屋を作りました。
小学校低学年の頃の映画の思い出で、嵐カン主演の鞍馬天狗に美空ひばりが出ていたり、エノケンの喜劇映画を見たというのは自慢です。
思い出しついでに、いま関西の女性芸人の大御所になっている上沼恵美子さんですが、私の母親の姉の婿さんと上沼恵美子の母親とが従兄妹だったのです。
建前や婚礼などの宴席にはいつも上沼恵美子の姉の百々ちゃんが私の隣に座っていました。
上沼恵美子さんのお父さんは、日掛けや月掛けの銀行の外交員でした。
二足のワラジというか、興業師みたいなことが好きで、本人も手品や司会をやるなど、お父さんの夢が二人のお子さん、百々子さんと恵美子さんで開花したということでしょう。
お母さんは津井生まれで、ヒサエちゃんと呼ばれて親しまれていました。

話が横道に逸れましたが、その映画館では月に2回(土・日)、封切りから1年遅れみたいな古いけれど、今でも名作といわれる映画を見られたというのは幸せでした。
映画好きになったのは、私の父親が勤めていたところから国産第一号のシャープのテレビを貰ってきて(新品を買ったので)、中学生の頃はクラブがない時に帰って、3時ころからフランス映画などの洋画をよく見ました。
名作「自転車泥棒」とか「悲しみの天使」などです。
フランス映画はアメリカの西部劇とちがって、ストーリーは悲しい話とか考えさせられる映画が多く、正義とか社会学という勉強になったかなぁと思います。

正月早々自衛隊が米軍の弾除けに「中東派遣」となったニュースだ。
この流れが続いていけば、孫たちの時代には「徴兵制」になるのですゾッ!
アンネの日記とかで、映画から戦争の悲惨なことも学んだ。

また淀川長治みたいなことを書いたけれど、戦争もダメ、不正は勿論 「アカン」「ダメ!」悪は滅びる。滅んでくれなければ アタシャこんな話を長々として無駄になる。

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