天誅組とはナニ?
2019.05.09
天誅組の挙兵とは
1863年8月13日、孝明天皇の大和行幸(攘夷祈願のために天皇が神武天皇陵・春日大社を参拝)をチャンスに革命を企てたのでした。
孝明天皇は激しい攘夷派であったので、公家の中山忠光を主将にして大和で挙兵。
(中山忠光は明治天皇の伯父にあたる)

嘉永6年(1853年)ペルーの黒船来航により歴史が動き始めたのである。
尊王攘夷思想というのはナニ?
尊王とは「天皇を敬う」ということ。日本人に共通する基本的な思想は「改元で令和の大騒ぎ」をみれば現在もあるのでしょう。
勤王か佐幕のちがいがあるが、天皇を頂点とする政治を行うのが幕府か天皇を取り込んでの薩長か公家かということでした。
攘夷というのは外国人を排斥する思想でした。
時代劇映画の新撰組や鞍馬天狗の時代だったのです。
尊王を掲げて反幕活動、京都炎上と天皇拉致のテロ計画、禁門の変での御所への攻撃など、動乱というのはなにがどうなっていくのか複雑だ。
大和五條の代官所を襲撃して代官を殺害して首をさらし、代官所に放火して焼き払う。
桜井寺に本陣を置き五条を天朝直轄地として『御政府』を宣言し本拠とする。
天誅組はその後、高取城攻略を企てるも激しい抵抗に合い失敗。以後は転々と本拠地を移し吉野大峰山中を敗走しながら戦闘を繰り返していた。
天誅組は相次ぐ敗戦と十津川郷士の離反で、挙兵から40日後の9月27日の鷲家口の戦闘で、天誅組としての組織は完全に壊滅する。
その後、1万人の幕府軍の包囲を辛くも脱出できた首領中山忠光ら七名は尊皇攘夷派の長州藩を頼って遠く山口県へ落ちのびて行く。
中山忠光は天誅組の変の3ヶ月前の5月に起こっている下関戦争(馬関戦争)時に、長州藩に招かれ禁門の変で戦死した久坂玄瑞の率いる光明寺党の党首として下関における外国船砲撃に参加していた。


改元しましたねえ。
令和という時代が始まることに対し新しい気持ちで臨みたいと思っている人があってもいい。
メディアが煽って民衆が踊るはチト可怪しいと思うが。
新しく始まる令和に嫌な気持ちもないが好きというのでもない。
平和な時代は良いけれど、いまの政治家ではその平和が続かないだろう。





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